かちゃり、と音がした。スイートルームに相応しく、豪奢なしつらえのドアノブをくるりと回した男が、中からひょっこりと顔を覗かせる。
「なあ・・・、もう非番でいいってば・・・」
「いえ、まだ勤務時間ですから。」
照れるでもなく大真面目に答えて警備の姿勢を崩さぬ女に、男はひたすら苛々する。
「本当に、君ってあきれるほど強情だなっ。」
「お褒めいただき光栄です。」
ぶすっとした顔つきで、恨めしそうに女を見ていた准将閣下だが、ため息をひとつつくと、自ら篭っていた部屋を出てきた。
そのまま内廊下に屹立する部下の隣に並んで立つと、だらしなく壁に寄りかかり、伸びをするように両腕を頭の後ろで組んだ。そして暢気に口笛なんか吹き始めたではないか。
「・・・いったい何をなさってるんですか・・・?」
対象が自分の隣に並んでいては、警護にならない。リザ・ホークアイは、厳しい顔つきで上官を睨みつけたまま尋ねた。
「なに、発想を変えることにしたのさ。けじめを重んじる真面目な女性には、それに相応しい口説き方があると思ってね。」
そうして、澄ました顔のまま陽気な鼻歌をいくつか歌うと、やがておもむろにポケットから銀時計を取り出した。
「さあてと。いよいよだな。カウントダウンさせてもらう。」
「は?」
「あと60秒、・・・55、・・・50、・・・」
「・・・暇すぎじゃありませんか?准将・・・」
「うるさいぞ。もう君は黙ってろ。・・・20、・・・15、・・・10、9、8、・・・」
5、4、3、2、1。
カウントダウンを終えた男は、にやりと笑って女に向き直った。
「さてと。もう言い訳はなしだ。今から私たちはただの男と女だ。文句は言わせない。」
返す言葉を見つけられず、俯いてしまった女の両脇にマスタングの腕が置かれ、逃れぬように壁に追い詰めている。
「ここまで焦らしてくれたからには、今夜は覚悟してもらおう。」
そうして、強引に女の顎を上向かせた。リザは、つい本能から逃れようとはしてみたものの、断固として抵抗を許さぬといった男の力と、ゆっくりと近づいてくる黒い瞳に負けて、観念したように目を瞑った。
最初、そっと優しく重ねられただけだった男の唇は、すぐに身勝手な本性を現し、強引にリザの唇をこじあけて重なりを深めてきた。
息苦しさから思わずリザが呻くような声を漏らすと、ますます男は調子にのって、幾度も角度を変えては息を奪い尽くしにかかる。
ふわりと足元が浮いた様な感覚を覚え、そして気づけば、器用な男の腕に抱きとめられたまま、部屋の中へと誘い込まれてしまっていたリザである。
「・・・あの、ま、待って下さい・・・」
まさかこのままベッドにひきずり込まれるのだろうか。リザは、うろたえて思わず哀願口調となるが、マスタングは容赦しない。
「この期に及んで、待つ事なんて何もないぞっ」
え?え?と女がひたすら戸惑っている間に、くるくると軍服を剥ぎ取られた。男自身も何の瞬間芸かと思うほどの器用さでいつの間にか軍服を脱ぎ捨てている。
「・・・もう、さすがとしか言えません・・・」
リザ・ホークアイがほとんど呆れて発した台詞は、再び重ねてきた男の接吻によって遮られた。
「いちいち余計なことを言うなら、幾度でもこうしてやる。」
そうして、問答無用でリザの身体を抱き上げると、腕の中で両足をばたつかせている女の唇を本当に塞いでしまう。
「戦の主導権を握るには、まず相手の機動力を削ぐっ」
「何を言ってるんですか何をっ、ん、んぐんぐ」
そうして、男はまんまと裸身の女神をバスルームへとさらって行ってしまった。
しゃっという音と共に頭から浴びせられた冷水が、すぐに温かくなるが、抱きしめあい触れ合う肌と唇の方がはるかに熱い。
火照った白い肌が、水を受けて艶めいてそそる。つい嗜虐的な気分に火をつけられて、男の唇と指がまるで弄るようにリザの身体を隈なく攻め始めた。
だが、いたずらな指の動きに、ふと示した女の反応と苦痛に歪む顔つきに、マスタングの動きは思わず止まった。
「・・・え?・・・」
湯水の流れる音が響く中、マスタングは戸惑った声をあげる。
「も、もしかして、君・・・」
マスタングは驚きの余り片手で自分の口を覆う。まさか。いや、だがしかし。
(処女に戻ってるとか・・・。ま・じ・で?)
急に神妙な顔つきになって水の栓を閉めた男の顔を、とび色の瞳がどこか不安そうに見上げる。
「・・・どうしました?私、どこかヘンですか?・・・」
だが、マスタングは、その問いに答えぬまま、大きなバスタオルでリザの身体を大事そうにくるんでやった。
自分も頭からタオルをひょいと被ると、入ってきた時以上の丁重さをもって、まるで姫君を運ぶようにリザを抱えあげるとベッドへと連れて行った。
タオルにぐるぐるとくるまれたリザの身体を優しく拭きあげてやりながら、マスタングはようやく言った。
「今から生まれ変わった君を抱く。それに相応しく精一杯紳士的にふるまうから、任せてくれたまえ。君は何も心配しなくていい。」
「・・・はあ。」
リザは、いまいちピンときていないようで、分かったような分からぬような顔で首をかしげている。
「でも、私たち、初めてではありませんよね・・・」
「君が私以外の男に身を任せたりしていないということも分かって、今、私は世界一幸せだっ。」
「そんな暇どこにもなかったじゃないですか・・・」
「私はずーっと、君との初めてを一からやり直せたらと思ってきたんだよ。とにかくあの時の君は・・・、酷いなんてもんじゃなかったぞっ。」
「・・・あの、私の話聞いてますか?」
「約束の日の後の一夜にしてもだ。私の夜の実力があんなものだと思われるのは、心外だ。ようやく念願叶ったからには、全てをこの私に委ねてくれたまえっ」
「あなたの、その張り切りようがとても怖いです・・・」
マスタングの鼻息の荒さに、すっかり怖気づいてリザはすくみあがった。
横たえられた姫君の肌の上を、男の唇がゆっくりと愛し始め、指は柔らかな感触を慈しむ。
長い長い時間をかけて、なお飽きることなく繰り返される愛撫は、純情なリザをも存分に昂ぶらせた。次第に拷問めいて苦しくなるほどに。
すすり泣く女の声を待って、ようやく男は身体を重ねた。ゆっくりと。懇願するように回される女の腕の動きをまるで無視して、あくまでもゆっくり焦らすように。
「君が幾度生まれ変わろうと」
耳元でマスタングの低い声が囁く。
「私は何度でも、君に刻印を押す。君はこの私のものだと。」
やがて、二人のつながりが柔らかに溶けるのを待って、男はようやく自らを激しく解放した。
己の胸に顔を埋めたリザの顔を覗きこんで見れば、とび色の瞳の目尻には、微かな涙が滲んでいる。
心地よい疲労感の中にいた男は、女への愛おしさがこみ上げてきて、強くリザの身体を抱きしめなおすと言った。
「君と私は、一緒にいることに躊躇いつつ、一方で、ずっと恐れていたようにも思う。互いから離れることを。」
黙って耳を傾けている女の柔らかな金の髪を、無意識の仕草で幾度も撫でる。
「だが、ようやく確信が持てたんだ。君と私の絆について。」
そして、真摯な声で続けたのだった。だからこそ君を手放す決心をした、と。
マスタングの心情について、リザは既に想像がついていたのであろう。ただ小さく、はい、と呟いただけ。
例え距離が二人を隔てても、我々は二人でひとつ。それは宿命を越えて、もはや二人の生き方の選択の結果であるのだ。
「待っていてくれ。楽ではないだろうが、私は必ず閉鎖区を解放し、イシュヴァール人たちの自治区を築くまでやり遂げるつもりだ。そして、」
マスタングの声は、いつの間にか甘い囁きから、決意を込めた力強い軍人のそれへと変わっている。
「君もまた、責務を果たせ。グラマン閣下はくせ者だが、あっぱれな人物だ。あの方を補佐して、新生アメストリスを導き、遠くから私を助けて欲しい。」
そんな男の言葉に了と頷きつつも、リザは考えずにはいられない。この先の二人が歩む道について。
どんなに甘い時間を過ごそうとも、二人の絆は上官と部下であった長い歴史の上に築かれており、それと切り離すことは生涯あり得ないであろう。
「・・・またこうして会える日がくるでしょうか?」
行為を終えた後の常として、男は急速に冷静さを取り戻す。だが、女の方はそうはいかない。
リザは、女の時間を過ごした余韻からまだ覚めやらず、自分だけが独り取り残されてしまったような寂しさから、ついらしくもなく弱音を吐いてしまった。
「君って、時々真顔で不吉なこというなあ。」
だがしかし、男の方は自信満々であった。
「そう長く待たせるつもりも待つつもりもない。だから、君だってブレダ達だって、死ぬ気のスピードで仕事しないと、再びの呼集に間に合わないぞ。」
それに、と悪戯っぽくウインクをして続ける。
「君ももう知ってるだろう?ご褒美を目の前にちらつかされた私が本気を出すと、とんでもなく優秀になるって。」
「・・・いつも本気を出して下さった方が有難かったんですが・・・」
相変わらず自分に都合の悪い台詞は華麗にスルーすると、マスタングは長い長い夜にようやく終止符を打つために、優しくリザの唇に自らの唇を重ねた。
「・・・もう夜が明け始めてしまった。少しだけ、眠ろう。」
そうして二人は、薄く差し込み始めた白い朝日の中で、束の間の夢を見るためにまどろんだ。
訪れた刻限とほぼ同時に、二人はどちらからともなく目を覚ました。
そしてそのまま無言で起き出すと、揃っててきぱきと身支度を済ませる。それは、長年積み重ねてきた軍人の性のようなものであった。
リザは、ホテルの重厚なホールを出たすぐのところで、准将の憲章をつけた上官の肩越しに見知った仕官の顔を見つけた。
「出迎えご苦労、マイルズ大尉。」
マイルズは、新しく上官となった男へ無言のまま敬礼で応えた。無論、最後まで男の背中を守り続けてきた女の方に視線を向けるような野暮な真似はしない。
豪奢な階段の下では、手回し良く、すでに軍用車を待たせてある様子である。
階段の降り口で、マスタングは足を止め、ゆっくりと振り向いた。
「ホークアイ大尉、ご苦労だった。では。」
そして、男はそのままくるりと踵を返して前へと歩み始めた。新たな挑戦、新たな一歩へと。
ホークアイは、ゆっくりと腕を上げ、敬礼をもって将軍となった男の凛々しい背中を黙って見送る。
やがて、新たな副官となったマイルズが一瞬だけ振り向くと、敬礼を送り返してくれたのが見えた。
「・・・マスタング准将を、よろしくお願いします。」
リザ・ホークアイの低く呟く声だけが、別れの朝に静かに響いたのだった。