リザは、男が懐から取り出した物を見て、思わずはっと息を呑んだ。
「それは・・・」
マスタングは、遠方の黒い雲をまっすぐに見据えたまま頷く。
「そうだ。最後にたった一つ残った”賢者の石”。これを使わせてもらう。」
そして、鞭の様な声で副官に命じた。
「目標物までの距離は?リザ・ホークアイ大尉?」
思わずリザははっと敬礼しつつ声をあげた。
「距離およそ12キロ。方位は南南西!恐らく3~5キロに渡って集団が広がっています。」
術の発動前に、男は一度だけ傍らの副官の方を振り向いた。そしてにやりと笑う。
「私にできると思うか?」
リザは、敬礼した姿勢のまま、鳶色の目を逸らさずじっと男の黒い目を見返す。
「貴方にしかできません。」
その短いいらえに、男は一つ小さく頷き、そしてぱんっと両手を大きな音をたてて合わせた。
自らを錬成の円陣とするためのポーズである。
環-リング-それは永遠に繰り返される終わり無き循環の象徴であり、同時に結界内に力を封印し円環させた力を増幅する効果をもつ。
次の瞬間、ごうという轟音が辺り一面に響き渡り、焔が生まれた。
その焔が巨大な塊となって、じじじという不気味な音と共に押し寄せてきた黒い雲に踊りかかる。
最初の一撃が、捉えた一群の虫たちをじゃっと瞬時に燃やし尽くした。
突然の熱に戸惑った虫の群れが、まとまりを無くし怯えるように散ろうとしたその時。
次いで繰り出された第二派の炎が、舐めるように地を進んだ後、ぐわっと大きく広がり、雲霞の群れに左右から襲い掛かった。
最早その様は、誰の目にも、牙をむいて獲物を一呑みにせんとする巨大な火龍としか映らなかったのである。
火の渦に閉じ込められた虫たちが、全滅するまでにさほど時間はかからなかった。
だが、放たれたマスタングの焔は、尚も燃え盛り続ける。ただの一匹もこの地を踏ませまいとする男の決意そのものであるかの様に。
やがて、一帯には静けさが戻った。無数にも思えた虫たちは、一匹残らず焼き尽くされ、そのかけら一つすら地面に転がっていなかった。
それどころか、赤かった地表のあちこちが焼け焦げたかのように黒ずみ、ぷすぷすとまだ燃焼の音と煙を出している。いかにマスタングの焔が壮絶な熱を放ったかの証であろう。
逃げ遅れ、震えるようにして成り行きを見守っていた群衆が、わあと一斉に歓声をあげた。
そしてその声が、まるで唱和するかの様に聞きなれぬ言葉を繰り返し始めたのに、マスタングもリザも戸惑うが、マイルズが静かな声で教えた。
「彼等は、あなたの事を火神と称えているんですよ。」
ぽりぽり。マスタングとしてはいささか決まり悪そうに頭をかくしかない。
「それはまた、偉く高いところに祭り上げてくれたものだな。」
ただの人殺しだったのにな。そう自嘲気味漏らされた男の台詞に、リザは力を込めて言った。
「いいえ。貴方の焔は確かに皆を救いました。」
そう、この男によって、焔の錬金術もまた死と狂気の宿業から解き放たれたのだ。
己を見つめる鳶色の瞳に、賞賛と感謝の念までを読み取って、マスタングはようやくにこりと笑った。
何かをやり遂げた後に見せるそのさわやかな笑顔に向かい、そっと女は問いかける。
「これが貴方の、”焔の錬金術師最後の錬成”、ですか・・・?」
だが、それに対してマスタングは、少々いたずらっぽい笑みを浮かべたままで何も答えなかった。しばらくじっと己の副官の瞳を見返した後で、おもむろに上機嫌に手を振って群衆の声に応えたのであった。
*****
「うっわー。こりゃまた派手に焼き払ったもんだねー。」
噂には聞いてたけどさ。そう続けた金髪金瞳の美青年は、あたりを無遠慮にきょろきょろと見回している。
麦畑だった場所には、だだっ広い赤茶けた大地だけが広がっていた。その荒涼とした眺めの中、乾いた風だけがただ吹きつけている。
「でも、ここまで焼き尽くして正解ですよ。これなら例え生き延びたイナゴが地面に卵を産んでいたとしても、完全に駆除されてるでしょうから。」
隣にいるアルフォンス青年は、素直な言葉と共に尊敬の眼差しをマスタングに向けた。
エルリック兄弟は、イシュヴァールの遺跡の研究のために、定期的にこの地を訪れているのだった。
「もう二度とそんな凄い錬金術は見れないでしょうから、正直言って現場を見れなくて残念な気もします。」
そう、日に日に衰えていく錬金術の動脈。最早アルフォンスの力をもってしても、大きな錬成を実行することは難しくなってきている。
「まさか、あの賢者の石が、最後にこんな事に役立つことになるなんてな。」
兄エドワードは明るく笑い飛ばした後、やや真面目な顔に戻って付け加える。
「けど、あの石にとっては、これが一番良かったと思うぜ・・・。」
その言葉に、石の秘密を知る一同は思わず無言となった。そう、大勢の命を原材料として作られていたあの石。犠牲となった人々の悲しみと願いが込められていたあの石。
「本来エネルギーというのは、正規の方法で人間が生み出すことができるものだ。それを、我々錬金術師は異常な状態で手に入れていたに過ぎない。」
マスタングが、重々しく言葉を発した。
「だが、ここから先は、そんなまやかしに頼らず、人間自身が地に足をつけて歩んでいくんだ。正しい科学の時代を。」
エドワード・エルリックもまた力強く頷きつつ言った。
「エネルギーなんて、別に人間の魂でなくったって、本来どの地球上の生命・物質にもあるもんだしな。」
その通りだよ、兄さん。今度は熱っぽくアルフォンスが言葉を継いだ。
「恐らく、錬丹術とは、人体エネルギーの代わりに別の生命エネルギーを使っているという違いだけで、ほぼ全く同じ技術なんだ。」
そして少しだけ声を低めて呟く。それを始めたのは・・・恐らく・・・ホーエンハイム。僕らのお父さんだ・・・。
錬丹術の研究の成果を目を輝かせながら語る青年を、マスタングも、ホークアイも頼もしい気持ちで見守っている。
「人間の魂を使うものと比べて、エネルギー効率が高いとはいえないし、統合されていないエネルギー源を用いているからアメストリスの錬金術より破壊力で劣るんだと思う。」
アルフォンスの強い意志を秘めた賢そうな瞳が金色にきらきらと輝く。
「だけど、道義上の問題が存在しない上、人間以外の全てを資源とすることができるかもしれないある意味無限の可能性をもつ術でもあるんだ。」
そして、きっぱりとした声で続けたのだった。
「錬金術を捨てた新しい科学技術の世界と、錬丹術の道とが、遠い未来のどこかで交差するかもしれない。そんな夢を持って、僕はがんばる。」
若者たちの澄んだ瞳に映る未来に、一瞬眩しそうに目を細めたマスタングだった。だが、すぐに深刻な顔つきに戻って深いため息をついた。
「だが、この後始末が大変でな・・・。」
せっかく興そうとしていた産業の芽がこれで摘まれてしまった。だが大勢の飢えたイシュヴァール人に生活の糧を用意しなくてはならない。
「恐ろしい体験だったから、もう誰も麦の作付けをやりたがらなくて、ね。」
ホークアイが困ったような表情で兄弟に事情を説明した。
だが、エドワード・エルリックは、何だそんな事かと不敵な台詞と共に声をたてて笑い出したではないか。
「へっへー。焔の大将、あんたの目は節穴かよ?」
可笑しそうにひとしきり笑った後、辺り一帯を指で指し示した。
「見ろよ。なんで、この土地の土は赤いんだと思う?」
マスタングとホークアイが首をかしげるのを見届けて、エドは得意満面で言った。
「鉄だよ!ここの土には鉄分が豊富に含まれている。赤いのは、それが酸化しているからだ。」
見る間にマスタングとホークアイの顔には理解の色が浮かび、叫んだ。
「と、いうことは。」
「うむ。近くに鉄鉱石の鉱脈があるに違いない。」
「まあ、アンタの知識と技術があれば、鉄鉱石の採掘ができなくても、酸化鉄から還元するって手もあるぜ?」
酸化物は、酸素と結びつきやすい物質、例えば水素などと一緒に熱すれば、酸素と切り離して元の金属を取り出すことができる。それが還元である。
見事に一本とられてマスタングは思わず悔しそうに舌打ちしたが、だがすぐに真面目な顔に戻って確信と共に頷く。
いける。この手で、イシュヴァールに真の復興を。
一同は、改めて赤い大地を見渡した。神秘的なまでの荒涼たる風景が、大きな町となり工場などが並び立つ様へ変貌することを想像すると少し寂しくはあったが、だが活気溢れる時代の予感がその様な感傷を吹き飛ばした。
「よーし。そうと決まったら、農場の番人は廃業だ。明日からは、鉄工所に就職した気分で始めなくてはな。」
マスタングの台詞にエドは再び大笑いした。
「あんたの焔で焼けば、さぞかしいい鋼が作れるだろうさ。」
高温で溶けた銑鉄に酸素をずっと送り続けて炭素を取り除いたものが、鋼なのである。
焔が少年を見出し、心に火を点け、熱く燃える戦火を歩む中で共に成長を遂げてきた。それが焔と鋼との暗示的関係。
その事に気づいた一同が一緒になって笑い出し、辺りには楽しそうな声が明るく響いていた。