中央司令部の一室。
幹部にだけ入室が許されているその部屋で、マスタングは静かに大総統との面会を待っていた。
「きっと、少将へご出世ですね。」
「いやいや、もしかすると中将とか大将とか。それどころか、正式な後継者としての打診があるかもしれませんぜ。」
部下たちが興奮を押さえきれずに自分を送り出した言葉が思わず蘇る。
混乱を乗り越え活況を呈し始めたイシュヴァール政策は、大成功を収めつつある。今やマスタングは”時の人”なのだ。
そんな時に、突如大総統からの中央出頭命令があったのだから、期待するなという方が無理だった。
やがて扉が開き、マスタングは姿勢を正して敬礼を一つすると、カツンと軍靴の音も高く意気揚々と大総統の待つ部屋へと踏み出した。
「やあ、元気そうじゃな。」
久しぶりに会うグラマンは、相変わらず特徴のあるふぉふぉ笑いをしながら語りかけてきた。
「はっ。すっかりご無沙汰しており、面目ありません。」
まったくじゃよ。マスタングの台詞に、グラマンはあきれたようなため息をひとつついた。
「定例軍議にも参加せん将軍なんて、キミ以外に他に誰もおらんよ。おかげで、ワシ、他の奴らを宥めるのに、随分と苦労してねえ。」
「・・・大変申し訳ありません。」
さすがに深く反省したマスタングだったが、すぐにいつもの調子を取り戻して言った。
「しかし、おかげでイシュヴァール政策については、ご満足いただける結果をあげつつあります。本日は、その事を詳細に報告させていただきたく・・・」
だが、その張り切った声を、ひょうひょうとしたグラマンの声が遮った。
「んー、その話は、後でまた聞かせてもらうとしてね・・・。」
そして、ちょいちょいと陽気に手招きをした。
「覚えておるかの。キミとの最後の勝負が途中でお預けだったじゃろう。」
にんまりしながら盤を取り出した大総統に、マスタングは目を丸くするしかない。
「・・・はあ。確かに覚えてはおりますが・・・。」
仕方なく勧められるままに向かいに座り、駒を置き始める。
「ふぉふぉっ。ちゃあんと再現したな。さすがじゃの。」
「記憶力はそう悪い方ではありませんので。」
このゲームを再び始めようと誘うグラマンの真意をいまいち図りかねて、マスタングの返事はやや用心深いものとなる。
「あの時、私はこうやって追い詰められて・・・。」
ふぉふぉっ。グラマンは声をたてて笑う。
「よく覚えておるよ。そしてキミは、最強の駒をここへ進めた。随分挑戦的な戦術だったのう。」
チェスにおける最強の駒。それはクイーン。キングを守るため並んでいたそれを、ぐいと手前に押し出した積極的な反撃の手であった。
「あの時は意表を衝かれたが、今、ワシは正しい答えを見つけたんじゃよ。」
すうっとグラマンの目が細められた。そして不敵な笑いと共に、カツ、と駒を置いた。
1手。また1手。マスタングの赤の女王がグラマンの駒を容赦なく倒していく。だが、次の1手を置こうとしたその時。
「・・・」
マスタングの手が止まった。そのまま腕組みして考え込む。数分間考え続けた後に、ようやくマスタングは潔く負けを認めた。
「・・・負けました。」
ふぉっふぉっ。一際高く満足そうな声をあげて笑った後、グラマンは追い詰めた赤のキングを、意地悪くナイトの駒で蹴り転がした。
「勝負はキングを倒した者の勝ち、という事じゃよ。」
クイーンに惑わされずに、ゲームの本分を見直し勝利をつかんだ男は声をたてて笑った。
そして、悔しそうに駒を片付け始めた黒髪の男に向かって、唐突に言い放ったのだった。
「という訳でね。マスタングくん。君、クビ。」
「・・・は?」
多分、マスタングは自分で自覚していた以上に間抜けな顔をしていたのであろう。その顔を見たグラマンは心底楽しそうに笑った。
「悪く思わないで欲しいんじゃがの。イシュヴァールで農業事業へと多大な投資をした会社から大苦情がきとる。身分を剥奪された国家錬金術師たちも怒り心頭じゃ。おまけに、さっきも言った通り、キミ、軍部内で敵を作りすぎ。」
いや、でも、しかしっ。マスタングはさすがに納得できない。
「規律を乱した事はお詫びします。ですが、私のあげた成果は国家の再生と安定に大いに貢献し、かつ国民もこの事を認めてくれているものと自負しているのですが。」
だが、いつの間にか笑う事を止めたグラマンの目は、まっすぐに黒い目を見返して言った。
「一言でいうと、キミ、目立ちすぎたの。分かる?」
グラマンの言わんとしている事を、マスタングもしぶしぶ理解するしかなかった。既得権層に睨まれてしまった自分。要するに、この俺がでかい顔していては、軍部のまとまりが無くなるのだ。そんな状態で無理に地位を与えても、統率力を発揮できないと判断されてしまったのだろう・・・。
がっくしと気の毒なほど肩を落とした男の背中を、励ますようにぽんぽんと軽くたたくと、グラマンはがらりと口調を変えて、語りかけてきた。
「そうそう。ところでね、キミ。今、北のドラクマがやばい事になってるって知ってる?」
思わずマスタングは、はっとして顔をあげた。
「そう。革命じゃよ。あそこも長いこと先軍政治を行っていたけれどねー、ついに怒った民衆に倒されちゃった。」
マスタングもまたその情報は掴んではいた。すでに王制から民主制へと移行を始めたアエルゴとクレタの両国が、ドラクマの民主化勢力へとかなりの支援を行っているとか・・・。
「キミも馬鹿じゃないから分かるよね。次にうちの国に起こることが。」
ぎらりと目の鋭さを増して、グラマンは声を低めた。
「三国は、既にわが国へと連帯して圧力をかけてきおったよ。時代遅れの軍国主義を捨てろ、とね。」
マスタングは、急速に冷静さを取り戻した頭で、情報を整理しつつ応じた。
「恐らく、我が軍の将官たちは、とてもそんな要求は呑めんと怒り狂うでしょうね。」
「ご明察通りじゃよ。」
グラマンはあくまで暢気そうな声のまま、ちょび髭をこねくり回した。
「あ奴らは、負けたことがないものだから、すっかり勘違いしてしまっておる。これまでは一国同士で戦っていたから各個撃破で勝てた。だが、ひとたび同盟を組まれれば、わが国は敵国に包囲されるという事を理解できておらぬのじゃよ。」
グラマンは再び陽気なふぉふぉ笑いを始めた。
「という訳で、だからキミはクビ。バカどもには国を任せられんからのう。」
そして、珍しく真摯な声に戻って続けた。
「近い将来、この国は民主制を復活せざるを得なくなる。次なる指導者は、軍から選ばれるのではなく、恐らく選挙で選ばれることになるじゃろう。」
そう。例えば、国民的な人気をもつ元英雄とか・・・。
二人はしばし無言となった。だが不思議なことに、これまで交わしたどんな言葉よりも、この時ほどこの方と心を通わせたことはないとマスタングは感じたのだった。
「その時、閣下はどうなさるのですか・・・?」
「んー?ワシ?」
グラマンは、しょぼしょぼと目をしばかせた。そんな表情をされると、何だかひどく老いて疲れているようで、マスタングの胸は痛む。
「ワシはもう年寄りじゃし、巻き添えを食う家族もおらんし、いたって気楽なご身分じゃよ。キミは何も気にせんでよし。」
無言のまま立ち上がり、敬礼をしたマスタングに向かって、グラマンはふいに話題をかえた。
「・・・ところで、昔、キミに冗談を言ったことがあった。ワシの孫娘を未来の大総統たるキミが嫁にもらってくれんかとね。」
覚えておるかの?と親しげに笑いかけられて、マスタングは少々困惑しながらも頷いた。
「はぁ。覚えております。閣下に孫娘がおられたはずはないのに、と。」
ふぉふぉと笑いながら、グラマンは言った。
「ワシにも若い時は、野心ぎらぎらの碌でもない頃があってねー。苦労かけた女房に死なれて、残った一人娘も反発して家を飛び出しちゃった。」
「・・・そうだったんですか。」
マスタングは何と声をかけたらよいか分からず、ただ言葉を濁した。すると、グラマンは懐から一枚の写真を取り出した。
「で、これがその一人娘なの。見る?」
マスタングは、手にとった写真を一目みた瞬間に、彫像のように固まってしまった。
「どうじゃ、美人じゃろう。」
すっかり勝ち誇ったような声で自慢するグラマンの脇で、マスタングは色あせた写真に写る人物を食い入るように眺める。どうしても目が離せない。
美しく輝くまっすぐな金髪。ぱっちりと大きく見開かれた瞳の色は鳶色。それは、その姿はまさしく・・・。
(・・・似てる。似すぎている・・・。)
やがて、呆然としたままのマスタングの手から、ひょいとその写真を取り上げると、グラマンはおもむろに暖炉の火へとその写真を放り込んでしまった。
「な、何をなさるんですか!」
驚くマスタングの声にも動じず、グラマンは飄々とした姿勢を崩さず言った。
「・・・これでもう、この事を知るのはワシとキミだけじゃよ。」
そして、低い声で続けた。
「だからもし知っていたら教えてくれんかの。結局あの子は何者なんじゃね?あれはもしや錬金術で蘇らされた私の娘なのではないのかね?」
マスタングは項垂れたまま、数奇な人生を送ってきたであろう男の背中を眺めた。そして、無意識に錬金術の師であった男の最後の言葉を思い起こす。
(私は、妻の身体を使って人体錬成を行った・・・)
だが、マスタングはすぐに一人首をふる。そして、己の方へと向けられたグラマンの目、そうあの鷹の目とそっくりの鋭い瞳をまっすぐに見返して言ったのだった。
「いいえ、彼女はリザ・ホークアイ。お嬢さんが残されたたった一人の娘で、そして・・・私の半身となった女性です。」
その声を静かな目で受け止めた後、グラマンはゆっくりと納得したように頷いた。そして、すぐにいつもの調子でふぉふぉ笑いを始めたのだった。
「偉そうに言っとるが、まだ求婚に承諾してもらっておらんのじゃろ?」
ずばり図星をつかれて、マスタングはがっくしと肩を落とすしかなかった。
「そ、その通りです・・・。」
「ま、せいぜい頑張ることじゃな。ワシの血を引いとる娘なら、そりゃ手強くて当然じゃからのう。」
ふぉっふぉっふぉっ。すっかり落ち込んだマスタングの目の前で、実に楽しそうな大総統の笑い声だけがこだましていたのであった。