東方司令部からイシュヴァール行政区へと定期視察に訪れているマスタングは、額に伝う汗を拭いながら呟いた。
「いやな暑さだ。」
「・・・全くです。」
行政区担当のマイルズは、思わず遠い目で頷く。
(まさか、この俺が、あの白魔の世界を恋しく思う日がくるとはな・・・。)
東方司令に補佐官として従うリザ・ホークアイだけは、相変わらず折り目正しく軍服の襟元ひとつ乱していないまま、なぜか汗ひとつかいた様子もない。
そこだけ風がそよぐかの様な涼しげな風情である。
その女が、窓から見える光景に目を向けながら言った。
「何とか収穫に漕ぎ着けられて、良かったですね。」
穂先を風で揺らし、一面に広がる小麦畑が薄く金色に色づいている。
「思い切った灌漑工事を行った甲斐がありましたな。」
マイルズが相槌を打ったのに合わせ、マスタングもまた窓辺へと足を向けた。
赤土の広がる大地に、人工的にくっきりと区画された金の絨毯が広がる様は、美しいというべきなのかもしれない。だが、三名の目には、どうにも形容のしようがない違和感のようなものが拭えず、ただ手放しで見惚れる気分にはなれないのだった。
イシュヴァールの地は、季節と日夜による寒暖の差が激しく乾燥もひどいが、代わりに眩しいほど照りつける陽光がある。
降雨日も少ない故か、想定以上の速さで作物が生長したので、ひとまず試みは成功と言って良かった。
「マスタング司令は聞き及びかと思いますが、今年は各地で異常気象が酷く、家畜類も病気でやられているとか。」
マイルズの言葉を受け、ホークアイも手許の資料に目を通しながら伝える。
「夏に豪雨被害のあった南部地区では、養鶏が壊滅的な被害を受け、大量の殺傷処分を余儀なくされた様です。」
「・・・ここは日照りと戦った夏だったというのに、たった百キロ程度しか離れていない南部で水害とはな。」
マスタングはため息をつくしかない。
「まあ、幸いにも東部地区全般では豊作とはいえずとも例年並みの収穫は確保できそうだし、諸外国も条件は同じで懐事情が苦しそうだから、当分きな臭い事は起きそうもないってことが唯一の慰めかな。」
視察時には2~3日地区に逗留するのがいつものスケジュールである。
マスタングは用意された司令用宿舎へと向かう道すがら、右腕のブレダが隣で退屈そうに呟く声を聞いた。
「平和に文句をいっちゃ罰が当たるって事は重々承知なんですがね。」
ブレダの口元にはいつにも増して皮肉気な笑いが浮かんでいる。
「俺は最近、自分が軍人だってことを忘れそうになるんですよ。マスタング司令はそう考えたりしないんですか?」
うーん、そういえばそうかもな。黒髪の司令は、どこかとぼけた声で応じた。
「この国では軍が政権を担っているんだから、軍人だって麦の心配くらいするさ。」
(あーあ、これが”イシュヴァールの英雄”の吐く台詞かねえ)
ブレダのため息が聞こえていたのかどうか。マスタングはただ、ふわぁと眠たそうにあくびをひとつした。
「・・・ま、働かなくて済むんならそれに越した事はない。それが俺たち軍人ってものなんだろうさ。」
軍人は~気楽な商売ときたもんだ~。本当にお気楽そうに鼻歌を始めた上官に、たしなめるような咳払いをひとつしてリザ・ホークアイが言った。
「とにかく。明日もまた早いですから、ゆっくりとお休みください。」
「こう暑くちゃ、冷たい紅茶を一杯淹れてもらいでもしなけりゃ寝付けないよ、ホークアイ大尉。」
「・・・一杯だけですよっ。」
世話焼き女房とダメ亭主みたいな二人を首をふりふり見送ったブレダの姿が見えなくなると、マスタングは用意された部屋の扉の前でふり向いた。
「やっぱり気が変わった。アイスティーは要らないから、冷たいビールが飲みたい。」
「だ・め・で・す」
「なんでっ。」
「ここは、視察地ですよ。いわばずっと勤務中です。そんな緊張感のないトップでは示しがつかないではありませんか。」
「じゃあ、ビールはあきらめるから、代わりに君が欲し、、、ちょ、なんでそこで銃を構えるんだっ。」
「そんなに眠れないんだったら、無理やり深い眠りにつかせてあげてもいいんですよ・・・」
「・・・よく分かりました。すごく背中が涼しくなりましたから、もう大丈夫だと思います。」
君の肌はひんやりしていて気持ちいいから、ちょっと戯れたかっただけなのに。マスタングはぶちぶちと口の中で文句をたれつつ、大人しく部屋へ入るしかなかった。
(あーあ、いい加減この不自由な状態にも飽きてきたぞ)
マスタングは、蒸し暑い夜の中で、ふてれ腐れて幾度も寝返りをうった。
一度は勢いで求婚したものの、あっさりとかわされた。そのまま押し切ろうにも、あのクソ真面目なリザのことだ。けじめをつけるまでは絶対に受け入れてくれそうもない。
(だけどじゃあ、いったいけじめっていつ来るんだ?)
このままいったら、自分たちはいつまでたっても結婚できないかもしれない。共白髪となった軍人の自分とリザをうっかり思い浮かべてしまい、ぶんぶんと慌てて首をふった。
確かに、自分にはやるべき事がある。だが、それは傍らに彼女がいてくれてこそできるんだ。軍人としての彼女は確かに有能だが、自分にとって彼女の存在はもうそれだけじゃあない。
むしろ、けじめだ何だと怒られる今の関係の方が日に日に苦痛で不自然なもののように思えてきてならないのだった。
「俺40才までにケッコンできるかな・・・」
色男マスタングは、一人寝のベッドでくすんと鼻を鳴らした。
凶報がもたらされたのは翌朝のことであった。
「南部地区で、イナゴの大発生が観測されたそうです。」
「・・・イナゴだと?」
バッタ類の卵は湿気やカビに弱く、孵化がしにくい。降雨被害にあっていた地域なのに、いったいなぜ?
「恐らく天敵であった鶏など鳥類が駆除された結果、孵化率があがってしまったからではないかと報じられています。」
「まずいですね。」
「うむ、まずい。」
イナゴは飛翔し移動する。数百キロもの距離を食い尽くし繁殖を繰り返しながら移動することで知られている。
本来は、この地にイナゴの餌となるような穀物はないはずであった。だが今は違う。目の前に広がる収穫半ばの金の絨毯を見ながら、マスタングの背に冷や汗が伝った。
必ず来る。しかも、乾燥していると孵化する確率が高くなる。つまり、ひとたびこの地へ飛んできたイナゴ群は、乾燥期の繁殖を何回か繰り返すと、さらなる大量発生を呼び、食べるものを求めて「移住型」へ発達するだろう。
そう、このイシュヴァールの地に留まらず、この国の穀倉地帯である東部一帯を食い尽くして・・・。
その場に居合わせた全員が文字通り顔色を無くしていた。鍛えられた軍人であるはずの彼等だが、この様な敵が相手では文字通り手も足も出ない。
彼等には見えた。食糧を食い尽くされたこの国が、次に向かうかもしれない暗い未来が。それは内乱か、はたまた外国との侵略戦争の再開か・・・。
せっかくの動乱から脱して得られていた平和な日々が、わずかな午睡でしか無かった事を思い知らされたのであった。
「れ、錬金術で何とかできないんですか?」
青い顔したファルマンが、救いを求めるように上官の顔を見上げた。幾人ものすがるような視線が突き刺さり、マスタングは唇を噛んだ。
何とかできるものなら何とかしたいさ、私だって!!そう怒鳴りたいのをぐっとこらえる。
(私の焔は、もう発動に必要なエネルギーが枯渇していて無理なんだ!)
「マスタング司令、大変です!早速南方にて不穏な動きが観測されたそうです!」
一同は、慌てて監視塔に登った。息をきらし登り詰めたそこで彼等の目の前に広がっていたのは・・・。
「凄い・・・」
「く、黒い・・・雲?」
まるでそこだけが夜になってしまったかのような真っ黒な雲霞の如き群れが遠方に見えた。その不吉な雲がゆっくりとこちらに向かって近づいてくる・・・。
「住民に軍施設内への避難命令を!急げ!」
あの群れに襲われたら、草植物に限らず人間の呼吸すら危うい。マスタングは叫ぶように命令の声をあげ、それに応じるように幾人かが走り出した。
だが、マイルズのかすれた様な低い声がそれを遮るように響いた。
「どうやら、その必要は無さそうですな・・・。」
既に凶事を察知した農村の住民たちが、大慌てで避難を開始していた。大声をあげ怒鳴り散らす者、泣き叫ぶ子供たち。歩けぬ年老いた親を背負ったまま必死で走ろうとする者。
「マスタング司令、ここも危険です。我々も地下室へと退避を!」
阿鼻叫喚渦巻く声に混じって、リザ・ホークアイ大尉の声が聞こえた。だが、マスタングはそれに対し、ゆっくりと首を振った。
「・・・その必要はない。」
「え?」
すでに退避のために塔の階段を降り始めていた幾人かが、驚いて振り向いた。無論、傍らの副官も、男の意外な台詞に目を見張る。
焔の男の闘志に再び火が放たれたのである。
「どうやら、久しぶりに私の出番が来たようだ・・・。」