「・・・閣下。マスタング准将。間もなく、イーストシティの駅に到着です。」
あががーと大口を開けて鼾をかきまっくっていた上官は、むにゃむにゃと寝ぼけ眼のままである。
「・・・ああ、もうちょっとだけ眠らせてくれたまえよ、中尉・・・。」
マイルズのこめかみに青筋が浮き上がった。
(この軟弱な黒髪野郎がっ)
全く。敬愛すべきあの北の女王との余りの違いに、落胆を通り越してほとんど呆れる。
前任のホークアイがどれほどこの男を甘やかしていたかは知らないが、自分は自分のやり方で任務にあたるつもりである。
マイルズは、すーはーと息を整えた後、上官の耳元に口を寄せると大声をあげた。
「敵襲ですっ」
だが、次の瞬間に国家錬金術師が示した変化は、劇的であった。
だらしなく居眠りしていた黒い目が見開かれたと思った時には、マイルズの利き腕は身動きできぬように掴まれ押さえ込まれてしまっていたのだ。
そして、白い発火布の手袋を嵌めた方の手が、見せ付けるように高く掲げられている。
男の表情は研ぎ澄まされたナイフの様に尖っており、黒い瞳が射る様な強烈な眼光を放っている。
自身も少々腕に覚えがあったマイルズではあるが、黒豹の様な素早さで戦士へと変貌を遂げた相手に、ぴゅうと口笛をひとつ吹いて、降参の手をあげた。
「失礼いたしました、准将閣下。余りにも良く寝ていらっしゃるので、つい。」
そうして、ようやく解放された利き腕をさすりながら、こっそり内心呟いた。
(人間兵器ってやつを、伊達に長くやってきた訳じゃあなさそうだ。)
「・・・荒っぽい起こし方は、余り好きじゃないな。」
マスタングは不機嫌な口調で呟くと、やや乱暴な音をたてて再び椅子に腰を下ろした。そしてそのまま、黒い目をじっと車窓の向こうへと向ける。
東部独特の田園の緑が広がる。アメストリス国随一の穀倉地帯である。豊かでのどかな国土の風景にも関わらず、男の表情は和むどころかやや険しい。
そっとその表情を観察していたマイルズだったが、唐突に発せられた質問にやや意表をつかれた。
「履歴には既婚者とあったが、東部に連れてこなくて良かったのか?女房に逃げられても責任はとれんぞ。」
あんたこそっ、ともう少しで口から出そうになる台詞を我慢して、マイルズは答える。
「・・・いっそ逃げられてしまうのも悪くないと、思わないでもないですな。」
予想外の答えだったのか、マスタングはちょっと目を丸くした。そういう表情をする時のこの男は、どこか子供っぽく見える。
「私的な事を尋ねて済まなかった。忘れてくれ。」
そして、そのまま低い声で続けた。
「・・・昔、やたら女房自慢ばかりする知り合いがいてね・・・。」
既婚者といえば、皆そういうものかと思ってしまっていたよ・・・。
らしくもなく言い訳めいた台詞を発してしまった事に自分でも気づいたのだろう。すぐに不機嫌な顔に戻った上官に、マイルズは軽く肩をすくめる。
「経験してみなければ分からない事というのは世の中たくさんありましてね。結婚もそのひとつでしょう。まあ、花を摘み放題の独身貴族の御方には関係のないお話でしょうが。」
むっと上官が青筋をたてたのが分かった。
「・・・何か、私に言いたい事がありそうだな、マイルズ大尉。」
いえ別に。マイルズは涼しい顔をしたままで、軽く眼鏡を指で直すと、おもむろに床から軍帽を拾い上げて上官に手渡した。居眠りしていたマスタングの頭からずり落ちてしまっていたものである。
「さてと。どうやら本当に到着したようですよ。」
新たな司令官を乗せてきた軍用列車を出迎えたのは、訓練の行き届いた一個小隊。
緊張と共に一斉に敬礼を送る彼らに、マスタングは軽く手を振って応え、そのまま用意された軍用車に乗り込む。
撫で付けた髪に軍帽を被りなおし、きりりとしたその姿は、先ほどまで口を開けて鼾をかいていた男ととても同一人物とは思えないほどである。
”イシュヴァールの英雄”の故郷への凱旋は、華々しいパレードをもって迎えられ、東方司令部までの道のそこかしこには多くの人だかりができている。
時としてあがる黄色い歓声に、爽やかな笑顔をふりまく男の傍で、マイルズは次第に不機嫌になっていく己を感じないではいられなかった。
「随分、外ヅラ、いやコホン、公のイメージを大事にされてますな。」
それに対して、にこにこの笑顔とゆっくり鷹揚に振り続ける手のポーズをいささかも崩さず、上官は答えたものである。
「お前も、英雄稼業を一度やってみれば、分かるさ。」
物事は経験してみなければ分からないと言ったのはお前だぞ。そう皮肉な口調で決め付けて、マスタングはますます白々しい笑顔で手を振り続けたのであった。
東方司令部長官室は、すっきりと整えられた状態で新しい主を待っていた。
しかしマスタングには、長くその座にあったグラマンの匂いが残されているように思えてならず、感慨と共に長官の席へとゆっくりとした動作で腰掛けた。
だがすぐに、表情を引き締めると、次々に指令を下し始めたのだった。軍議の計画はどうなっている?参加者の顔ぶれは?それではだめだ、明日には早速左官級の者を全員呼集しろ・・・。
マイルズが、次々に挨拶と報告に訪れる幹部の面々を一通りさばき終わってふと見ると、エネルギッシュに動き続けていた新司令官は、席を立ち上がり、ゆっくりとした歩調で広い部屋を歩き回っていた。
「・・・うん。やはり懐かしいな。」
そう言って書庫棚などを眺める視線がやや和んでいる風に思え、休憩に良い頃合と判断したマイルズは、従卒にコーヒーを淹れるよう命じるために席をはずした。
「あの、マイルズ大尉。」
ふいに廊下で呼び止められて振り向くと、小荷物を抱えた事務官が立っていた。
「中央からお届け者です。至急便の扱いで。」
マイルズが首をかしげながら包みを解くと、そこにはマニュアルと思しきファイルがあった。面には”取り扱い説明書”とあるが・・・?
差出人からの一片のメモが挟み込まれているのにふいに気づき、それをつまみ上げた。
『慌しかったために満足な引継ぎができませんでしたので、急ぎ書類にてお渡しいたします。この資料は、マスタング大佐改めマスタング准将閣下の補佐官を務める上での諸注意事項となります。お役立てくだされば幸いです。
中央司令部 大総統府秘書部 大尉リザ・ホークアイ』
戸惑いながら、ぺらりとページをめくったマイルズの指が止まった。
「・・・しまった。そういう事は早く言えよ。」
低く独語すると、慌てて司令官室へと引き返す。だが、時すでに遅し・・・
「・・・やられた。」
司令官室はもぬけの空となっていた。ゆっくりと懐かしそうな顔つきで歩き回っていたはずの部屋の主の姿は影も形もなく、ただ机上には早速の承認を求める書類たちが恨めしそうにうず高く積まれたまま放り出されていた。
『記
その1) 一人で執務室に残してはいけません。時として脱走を図ります
その2) 書類を一度にたくさん与えると、やる気を失うので、少しずつ小出しに渡します
その3) 集中を発揮した後ほど、反動が大きいです。居眠りさせぬよう、時々話しかけましょう
その4) 意外と怒りっぽいですが、忘れるのも早いので、まずい空気になったら軽く話題を逸らしましょう
その5) 基本的に肉体労働は嫌いです。運動不足になるので散歩代わりに1日1回外部視察の予定をいれてください
その6) 一人で食事を採るのを嫌がり、食事を抜いてしまったりするので、一緒に食べてあげてください。
・・・・云々』
(・・・あんたの男は、全く手のかかる男だよ。)
まんまと上官をとり逃がした新米補佐官マイルズは、心の中で前任ホークアイに愚痴り、一人大きくため息をつくしかないのであった。