本日の予定を読み上げる秘書官の声に、目を瞑って耳を傾けている大総統である。机上に両肘をつき、組んだ両手の上にあごをちょんと乗せたいたってだらしない姿勢なので、ひょっとして居眠りしているのではないかとリザ・ホークアイが不安に思うほどであった。
「了解じゃが、もちっと早めの時間に昼食にありつかせて欲しいのう。年とると朝も早いから、ひと仕事終えたら、もう腹が鳴る。」
「至ってご健康そうで何よりではありませんか。」
リクエストに応じるため、ちゃっちゃっとスケジュール表に修正を書き加えながら、ホークアイは軽くいなすように応じた。
そのまま修正したスケジュール表を脇で控えていた補佐官に手渡し、今度は、代わりにとばかりに分厚い資料の束を抱えあげて、どさりと大総統の執務机に積み重ねた。小柄なちょび髭大総統の姿が隠れてしまいかねないほどの量である。
「ふぉっふぉっ。こりゃまた今日は一段とすごいねー。ワシ朝からすでに嫌になりそうじゃよ。」
だが、ホークアイは、この数ヶ月ですでに曲者大総統の力量と癖をすっかり把握していた。
「そうですね。本日はやや多めではありますが、恐らく閣下なら丁度午前中で目を通し終えることと思います。それに・・・」
リザは、きりりと澄ましていた顔を少しだけいたずらっぽく綻ばせた。
「・・・閣下の場合は、目の前にそびえる山が高い方がお好きかと存じまして。」
その台詞に、グラマン大総統はお見事、と満足そうに頷くと、早速書類の束に手を伸ばした。
「その通りじゃよ。山がね、確実に減っていくのを見るのがわし好きなの。しかし、前任と比べられてるかと思うと、ワシもちょっと緊張するのう。で、ブラッドレイの仕事の仕方はどうだったの?」
そうですね・・・。リザは一瞬だけ遠い目をしそうになる。見事な最期を遂げた隻眼の王。この執務室で交わした二人だけの会話の記憶・・・。
(私は、自分が人間でないという事に悩むほど弱くないんでね)
「・・・ブラッドレイ閣下は、大層真面目な方でした・・・。」
うんそうじゃろうそうじゃろう。グラマンは書類から目を離さず相槌を打つ。マルチタスク脳というべきか、複数のことを同時に進行させる器用さも、グラマンの特徴のひとつである。
「わし、基本的に不真面目じゃから、どうも昔から奴は苦手でねーっ」
くすり、とつい苦笑をもらしたリザに、面白そうに目を向けながら、グラマンはさらりと続けた。
「で、さらにその前のボスは?」
その前のボス、ですか・・・。リザは思わず考え込む。
「不真面目さでは、閣下といい勝負だったかと。ですが、仕事ぶりは残念ながら閣下ほど精力的とはいえず、とても手のかかる人でしたね・・・。」
グラマンは、ふぉっふぉっと声をたてて笑い、書類を投げて寄越した。
「その手のかかる奴が、こんな物を書いて寄越してきた。どう思うね?」
リザは、思わず資料を手にとった。
『イシュヴァール閉鎖区の解放と自治区開設について』
『国家錬金術師制度の廃止と国軍研究予算について』
それらは、どちらも重要な国家政策への献策であった。分厚い資料だが、少し目を通しただけで、どれもマスタング准将自身が起草しまとめたものであることが分かる。
「・・・不真面目と言ったことを撤回します。」
リザの台詞に、ふぉっふぉっとグラマンは再び楽しそうに笑った。
「いいじゃろう。君の台詞は奴には黙っておいてやろう。」
そうして、再びグラマンは二つの資料に目を通し始めた。ホークアイが自席に戻り、自身の実務をこなしはじめるのを横目で確認しつつ、グラマンの目はすうっと細められて行く。
(むう。マスタングの奴め、結構大きな勝負に出たな。)
グラマンは自分自身が長く東部の施政を取り仕切ってきたため、あの地区の抱える歴史的な民族問題というものを甘く見ていない。
もともとは、イシュヴァール人の方が原住民であったものを、我々アメストリス人が殖民し、追いやり、軍隊をもって無理やり従属させてきた。
イシュヴァール殲滅戦の後、わずかに生き延びた彼らは流浪の民となり、国情不安の原因ともなっていた。だから、再び彼らを”約束の地”に呼び戻し、自治区として発足させてやろうというのは、政策的な利点もある。
(・・・だが問題は、だ。)
ひとつは彼らの宗教。厳格で苛烈な教義をもつそれが、使いようによっては毒にも薬にもなる。流浪の民でいた時には、民族の心を励まし繋ぐ存在であったものが、再び一つ所に大勢の人間が集まりだすと、自ずと組織をまとめる上での実権を主張しだすのだ。
その難問を乗り越えて、彼らに自治を認めると同時にこのアメストリスの国家の一員でもあると認めさせていけるだろうか。
それに、ひとたびイシュヴァールの地を離れた者たちは、すでに数百年間同じ暮らしを続けてきた元の状態に戻ることのできない者も大勢いるだろう。彼らに、どう生活の手段を与え、社会を再構築していくか。
「・・・ま、再構築のワザは錬金術師の本領じゃろう。お手並み拝見というところかね。」
飄々と独り言のように呟くと、続いてもう一つの資料の方を開いた。
そして、それを読み始めたグラマンの顔つきは、先ほどの資料を読んでいた時よりも、さらに厳しいものへと変わっていったのだった。
*****
「ホークアイ君、今日は君もちょっと付き合いたまえ。」
そう命じられて、ホークアイは大総統専用車に一緒に乗り込んだ。
護衛のための車に挟まれつつ、大総統府からするりと発進させる。
あの事件で、かなり破壊の被害を受けていた大総統府ではあったが、ようやく再建を果たしつつある。それに比べ、本日の目的地である西街区は、かつての瀟洒な高級住宅地にまだところどころ市街戦の傷跡が残っている。
(・・・あれから、ようやく1年)
余りにも忙しい日々の中、時間はあっという間に過ぎて行き、感慨に耽ることも許されなかった。
穏やかな市民生活を守れたことに、心から安堵し満足する気分もある一方で、こうして街に残る事件の記憶を目の当たりにすれば、まだまだやるべき事は山積みなのだと訴えられている気分となり、ホークアイは思わず気を引き締め直した。
どこか思いつめた様な秘書官の横顔を、横目でそっと観察していたグラマンが、ふいに声をあげた。
「ほら、見えてきたよ。」
小柄な大総統が指し示した先には、見覚えのある懐かしい建物がそびえていた。
「ようこそお越し下さいました、グラマン大総統閣下。」
出迎えてくれたブラッドレイ夫人は、ホークアイの記憶にある通りの穏やかな笑みで、何も変わっていない。
一大クーデターの混乱の中で夫を亡くし、その後もグラマン政権下で監視を受けている立場である事を微塵も感じさせない穏やかさであった。
「ああ、これはホークアイさん。とても懐かしくって嬉しいですわ。」
自分の顔を認めて、優しく声をかけてくれた事に、リザは内心ほっとする。何せ、クーデター実行の現場の全てをこの夫人には見られているのだ。
その後の成り行きからいって、自分たちマスタング一派、そしてグラマン新政権の全てを恨んでいるかもしれないと、憂慮する気持ちがあったのだが、それはこの女性に対する侮辱であったと自らを恥じる気持ちでいっぱいになった。
「どうですかな最近は?何かご不自由はおかけしてませんかな?」
グラマンは紳士として帽子をとりつつ、勧められた椅子にゆっくりと腰掛けながら尋ねた。
「いいえ。不自由など何もありません。いろいろ配慮いただきありがとうございます。」
やりとりされた会話の空気から、ホークアイはグラマンがしばしばここを訪れているのだということを知る。
サービスされた紅茶を勧められ、いったんは恐縮しながら断ったものの、
「ホークアイさんは相変わらず真面目でいらっしゃるのねえ」
「そう頑なすぎるのも、かえって無粋じゃよ。こっちへおいで。」
とからかうような夫人の声と、鷹揚なグラマンの誘いに、観念してテーブルについた。
「お仕事は、忙しい?」
夫人は、カップに注ぎながら親しげに話しかけてきた。
「はい。ですが、大変重要な務めを任されておりますので。」
ああー堅い、堅い。リザの生真面目な返答に対し、グラマンは、破顔して大声で笑い出す。
「本当にねえ。この子、こんなに堅物で、わし困っちゃう。ブラッドレイはともかく、よくマスタングの下で我慢できていたものだと、感心しとるよ、わし。」
この子って言われちゃった・・・。リザは、なんとなく頬を赤らめ居心地の悪い気分を味わう。
(そりゃまあ、グラマン閣下や夫人からみたら、私なんて小娘なのかもしれないけれど・・・)
「少なくともあの人は、ホークアイさんの事は気に入ってましたよ。」
夫人の台詞に、グラマンはなぜか微妙に不機嫌そうになる。
「それはブラッドレイとは真面目同士、ウマがあったのかもしれんがのー。」
そうして、口髭を整えつつ言った。
「わしだって、大いに気に入っとるよ。」
な、何だかヘンな話の流れになったわ。リザがもじもじと落ち着きなく視線を泳がせ始めると、そんな様子の彼女に助け舟を出すつもりなのか、ブラッドレイ夫人がふいに話題を変えた。
「ところで、マスタング准将もご活躍と聞き及びますが、お元気そうですか?」
「・・・何でそこで奴の話題になるの?」
「あら、別にいいじゃありませんか。ホークアイさん、最近お会いになりまして?」
リザは、努めて事務的な口調で返答した。
「いえ。マスタング准将は、東方司令部にてご多忙の様子です。この1年間、中央へお越しになる機会はありませんでした。」
まあまあ。ブラッドレイ夫人はちょっと驚いたように口元を押さえた。
「まったく。普通だったら叛意でもあるのかと疑ってやりたくもなる状況ですが、まあえらく真面目にやっとるみたいなんでね。」
グラマンの台詞に、押し黙ったままのホークアイであった。だが、夫人は、紅茶と同じ色の年若い女の瞳をふいに覗き込むようにして言った。
「・・・我慢しすぎないのも、信頼の証ですよ。」
なんのことでしょう、ととぼけようとしたリザであるが、ぐっと言葉につまり見事に失敗した。そう、この女性には敵わない。敵うわけがない。だってあの孤高の男の魂を支え続けた人なのだから・・・。
夫人のにこやかな視線、グラマンの探るような視線、双方から逃れたい気分でぎこちなくカップの紅茶を一口飲んだ時であった。
「ママー、小鳥さん、小鳥さんが・・・」
小さな少年が、半べそで駆けてきた。小さな手に、怪我をしたらしい鳥を大事そうにくるんでいる。
「あら大変、すぐに一緒に手当てをしてあげましょうね、セリムや。」
少年は、ほっとした様子でやや元気を取り戻すと、安心しきった顔で母親の手にそっと小鳥を手渡した。
「・・・優しい子に育ってますな。」
口ではそういいつつも、グラマンの目は決して油断していない。じっと少年の様子を観察し続けている。
そう。かつてプライドと名乗っていたホムンクルスの最後の生き残りセリム・ブラッドレイは、鋼の錬金術師との対決の後、生まれたての赤ん坊の状態に戻って再びの生を生きようとしているのだ。
ほぼ嬰児の状態の義理の息子と再会を果たした時、ブラッドレイ夫人は喜びの涙を流したという。
その後、大変な苦労をしてこの普通の少年の状態へと育ててきた夫人の献身と愛は本物であり、さすがのグラマンにも、このかつて化け物と呼ばれた存在が第二の生をどう生きるかを見届けようという気にさせたのだった。
「ええ。大丈夫。私がちゃんとこの子を見守って育てていきます。」
そして、実に母親らしい顔を見せて息子自慢を始めるのであった。
「優しいだけじゃなくて、とても賢い子です。そりゃあ、普通の子とは違いますけど、この子はこの子。私と夫との自慢の息子ですから。」
人間は一人では生きられないってこと、そしてだからこそ人間は家族や仲間を求め強くなれるんだってこと。そう、人として生きるのならば。
「私がかつて夫に教え、逆に教わる事になったその事を、この子に伝えることが今の私の生きる意味になっています。」
ホークアイは、尚も話題が尽きぬ様子のグラマンと夫人を残し、席を立ってテーブルを離れた。
グラマンの好意で、夫人たちは旧大総統邸でそのまま静かに暮らしている。ブラッドレイづきの補佐官であった頃の記憶を辿るように、ホークアイは一人中庭を散策しようとした。
すると、燃えるように真っ赤に咲き誇る花で埋まった花壇の向こうから、ひょいと愛らしい少年の顔が覗いた。
少年がはにかむ様にホークアイを見上げたので、ホークアイは小さな少年に目線を合わせるようにゆっくりとしゃがみこんでやる。
おでこのへんてこりんな模様が、なんだか滑稽だけどそれもまた可愛らしい。艶やかな黒髪を優しく撫でてやっていると、少年は思いがけないことを言ったのだった。
「おねえさん、僕、おねえさんの事知ってます。」
「・・・?そうなの?」
昔のおぞましい記憶が残っているのであろうか。あの影の様な触手で結界内を自在に這い、死者生者問わず自らの中に取り込んでいた化け物・・・。
不吉な記憶が蘇り、思わずぞっと鳥肌がたちそうになる。
「夢に何度も見ました。ぼく、あなたの背中にある模様が綺麗だなあって見惚れて、そ、そして・・・」
少年は恥ずかしそうにもじもじした後、真っ赤になって小さい声で続ける。
「あんまり綺麗で素敵な模様だから、ぼく、お姉さんのお背中にそっと接吻するの。いつもそこで目が覚めちゃう。」
リザはただ無言のまま少年の目をみつめた。少年の瞳は美しく澄んでいる。なんだか哀しい気持ちになるほどに。
少年の記憶がどこからきたのか。誰のもっていた記憶なのか。リザはその事に思い当たると、ふいに湧き上がってきた感情を自分でも持て余した。
リザはぎゅっと少年を抱きしめた。そして、少年の額、彼の背負った宿業が刻まれた文様に、そっと優しく接吻をする。
少年は、顔を赤らめるでもなく、目を瞑った状態で静かにその接吻を受けとめると、ゆっくりと目を見開いた。
「・・・ありがとう。きっともう、これで夢は見ない。」
まるで一瞬の短い夢を見ていたようであった。リザは、いたいけな少年の中に、紅蓮の男の幻を確かに見たと思った。
だが、小さく呟くような台詞だけを残し、少年はくるりと背中を向けて駆け去ってしまった。リザには、その後をしばらくぼうっと眺めていることしかできない。
(あの少年と共に・・・)
異端であった男の魂もまた再びの生を生きるのだろうか。そして、彼はきっと知るのだろう。母の愛、人の愛、人との絆の素晴らしさを・・・。