この作品、間宮くんのゲスト登場が発表されてから慌てて原作チェックしたんですが、
「弱者への寄り添い方」について、しみじみと考えさせられてしまった良作でした。
ドラマも、ポップな絵柄でシリアス過ぎない原作の雰囲気を、上手く再現していると思います。
間宮くんきっかけで知る事ができ、素直に感謝です。
①胡散臭さ全開で登場
一人暮らしをしている謎の少年コタローくん。
愛らしい言動に隠された悲しい事情がみえてきて、本作が決してちびっ子ほのぼの癒しドラマではない事が明らかに。
そんな中、前回4話のラストでいきなり登場した青田間宮くん。
お目目クリクリでニコニコしてるのに、胡散臭さが凄かった。
なぜって、口元は笑ってても目が全然笑ってない
「お願いがあるんだけど」
こう言って、人懐っこくコタロー君と一緒に一緒に銭湯や幼稚園行き始めるんですが、
作り笑い感がどこか怖かったし、そっと相手を観察したり探ってる空気が伝わってくる絶妙な芝居でした。
②間宮青田は悪い奴なのか
コタロー君の“父親に雇われた探偵”という正体が直ぐに分かり、
「(父親に)知らせますよ。仕事ですから」
情報を知りたいのならばと、さり気なく金を要求
「やっぱり今回の間宮くんは曲者!悪い奴ね」
と視聴者に思わせますw
接触禁止命令が出ている(恐らく虐待前科のある)父親からコタロー君を守ろうと頑張るアパート住人たちはとても優しいんです。けれど、
「なら聞きますけど、あんな小さい子が一人で暮らす現状が本当に良いと?親でもない貴方達がずっと彼の面倒を見られるんですか?」
こう青田に切り返されて、言葉に詰まってしまいます。悔しいけれど、これは正論…
しかも、コタロー君自身も“弱き者”扱いされる事を拒否!青田どのの事も庇います。どうしてでしょう?
③虐待被害児の心はそんなに単純じゃない
一旦姿をくらました後再び現れた青田に、一同は「父親に居所を知らせたんだろう」と詰め寄りますが
意外にも青田は、偽の報告をしてコタローを守ったのです。
その理由は二つ。
一つ目は、コタローが風呂場で青田が見せた髭遊びから、青田と父親との繋がりを見抜いていた事。
その上で
「自分が弱き者ゆえに父上を悪者にしてしまった」
「だから自分が強くなるまで、父上に報せるのを待って欲しい」
コタロー君がそう頼んで来たからです。
そして二つ目の理由。
実は、青田自身も虐待を受けた過去があった…
それゆえに、コタロー君の心情を察してしまったのです。
周囲は、コタローがてっきり虐待父から逃げたいんだろうと思い込んでいたのですが、子供の心理とはそんな単純なものではなく…
『不幸な関係になったのは自分に責任がある。
だから自分が一人暮らしを頑張って強くなれば、いつかまた父親と、家族で暮らせる』
凄く切ない事に、風呂場での髭遊びを楽しい記憶として覚えていたり、恐らくコタロー君は決して父親が嫌いなのではなく、むしろやはり恋しいのでは、と思わせられた事です。
虐待や災害など不幸な目に遭遇した時、子供は自分に原因があると考えてしまう場合が本当にあります。
私、ある物凄く悲しい記憶が蘇って泣いてしまいましたよ…
まだ娘が小さかった頃。同級生の男の子のお母さんが脳梗塞で倒れて亡くなってしまった事がありました。下に赤ちゃんが産まれたばかりで育児疲れが重なった結果だったと伺いましたが、変なイビキをかきつづけて起きないお母さんを不審に思い近所の人に助けを求めたのがその男の子でした。お通夜の日、その子は「僕が我が儘だったから!お母さん困らせちゃったから!」ってずっと泣きじゃくってて…
やがてその子達はお父さんと一緒におばあちゃんの所に引っ越して行ってしまいましたが、今でもあの時どんな言葉をかけられただろうか、自分にも何かしてあげられなかったか、本当に思い悩んでしまう出来事でした。
④一緒に強くなろう
そっとアパートを去ろうとする青田を、コタローと狩野が見送ります。
「本当なら、父親に居場所を報せるだけでよかったはず」
「なのに、わざわざ引っ越してきて接触したのは、コタローを見守る気持ちが湧いたからでは?」
狩野にずばり指摘されて、苦笑いの青田。
全くの善人とまでは言いませんが、誰にだって人の心はあるもんね。あって欲しい!
そうして小さなコタローくんの手と、「対等な仲良しさん」として握手を交わした間宮くんの大きな手。
この場面、登場時の胡散臭い笑顔とのあまりの違いに、心洗われる思いでした。
弱き者に寄り添うって、一体どうあるべきなんでしょうね?
同情の声をあげたり言葉をかけたり、お金や愛など相手が欲しているものを与えたり優遇したりという方法は、やらないよりやった方が良いに決まってるとは思いつつ、根本的な所で違和感を感じてしまう事が私は多いのです。
究極的には、人は自分自身が強くなり自立する事でしか幸福感や誇りを得られないのではないかと、頭のどこかで考えています。
「助ける」「優しくする」という行為自体は美しいけれど、与え支え続けるには与える側が相当強くあらねばならないし、相互関係がずっと一方通行では対等とも言えず、相手の自立や成長機会を奪ってしまいかねない。
従って、「どういう言葉をかけるべきか」「どう寄り添うべきか」という問題にもし正解があるならば、「一緒に強くなろう」というのは、限りなく正解に近い一つの答えである気がしました。