2013年話題となった本のひとつ。
我が家ではこの本を、ちょっと変わった読み方をすることになりました。
購入したのは夫です。動機は、話題のビジネス書であった事に加え、職場のおっかないお姐さんの面々(部下というよりただ突き上げられているだけらしき哀れなダンナよ…)の指導や面談などの時に使える言葉を探そうとしての事だったそうです。
次に読んだのは私でした。ダンナが「お、ここ使えそう」とばかりに、あちこちポストイット貼った状態の本を、さーっと目を通しました。そして軽い欝に笑。
最後に、私の母の手に渡るや、「全くもってこの通りや!!」と叫ぶような大声をあげ始め、しまったこの人を興奮させちゃった状態だよなう。
本の内容は、今をときめくスーパーパワーエリートの女性が、「成功した女が増えないと社会は変わらない。だからしり込みせずもっと前へ出よう」という同性へ向けた前向きなメッセージの書でございます。
なんといっても桁外れの成功を収めた女性ですので、本人も覚悟していたと書いてある通り、この本への嫉妬まじりの非難は相当あった様子ですね。無理もないです。私だって「すげー。まじすげー。でも私にはムリ」と思っちゃいましたもん。
でもねー、そういう声が他ならぬ同性である我々から挙がってしまう事こそ、女の駄目なところなんだよとしみじみ考えてみたりもする。
共感した言葉はたくさんあるのだが、強いて2点に絞ります。
①「完璧を目指すな。まず終わらせろ」
これ、個人的経験を経た結果、私が辿りついた結論と全く同じです。
だから、この箇所を読んだ時、思わず大きく頷いてしまいました。
体力と時間そして精神力の全てに限りがあるのだから、全部を手に入れ完璧にしようなんて無理。
では、どうするか。
本当にやらなきゃいけないことだけをやりましょう。そしてそれを、とにかく、とっとと終わらせましょう。
そしたら、あーら不思議、本を読むどころか、萌え小説書く自由時間までひねり出せましたよ~。
本の中に、余りあからさまに家事育児の手抜きや悲惨な状況を公にすることは賢明ではないというエピソードが出てくるが、ちょっとだけ暴露しちゃおうかなっ。
私、キリのない仕事が大嫌いなんです。なので、掃除と洗濯が大嫌い。なにあれ何の無間地獄なの。
そのため我が家では、すごい方法でこの問題を解決しております。
私は、洗濯物をたたむという事を一切しません。
シャツ類だけでなくパンツやスカート類も全てハンガーにかけて干すのはあたり前。加えて、くつ下とか小物類も無数にあるミニミニサイズの洗濯バサミ吊るしに干します。
皆さん、もう分かりますね?乾いたそれらを取り込んだら、そのまんまクローゼットの中にかけておくんです。
従って、くつ下を履くときはまず、ずらーっって並んだミニサイズハンガーの中から選び、プチンってとるんです。合理的でしょ?何か問題でも?(掃除の方も推して知るべし)
②「働く母親は罪悪感のマネジメントが必要」
痛い。胸が痛いよう。
これは誰もがぶち当たる壁のひとつで、しかも自分が強くなるだけでは解決できなかったりするんですよね。
なぜならば、この問題は男と女の問題ではなく、専業主婦と働く母や、未婚女性と既婚女性との間でアイデンティティをかけた対立に陥りがちだから。
そこまで明確に異なる立場でなくとも、仕事へ向ける比重度の違いといった些細な違いですら、十分に非難合戦の材料となってしまう事を、至る場面で経験し知っています。それだけ「母」という役割は絶対的献身を当然視され、女の尊厳とされている。
これ、本当に根が深い問題で、どうやったらいい落としどころが見つかるのか私には分からないです。
多様性を認め合う事こそが理想だとは思う。
けれど、複雑化した人生の選択肢の前で、女はその選択結果の自己責任をずっと独り背負いこむことになります。
自分が選ばなかった方の道を歩む人が近くにいて、自分は手にできなかったメリットを手にしているのを見たら、急に自分の道が色あせて見えたりして迷う宿命。自由と権利の代償というには、なかなか皮肉で厳しい問題なのではないでしょうか。
一方で、相変わらず選択肢すら与えらず画一的な生き方しか許されていない男性たちがいて。
せめて、「自分の生き方を人に押し付けるのはやめようぜ」って言うしかないじゃありませんか…。
次に。私が欝を感じた理由についても。
1)男はしょせん分かってない
ダンナがポストイット貼ってるところが、ことごとく「はぁ?」という箇所で、もう笑うしかなかったのデス。
私のダンナは一般的日本人男性基準としては、十分に「理解ある夫」の部類だとは思いますが、しょせんあやつらは分かっとらんです。その事を痛感してしまい、とほほでした笑。
2)ごめん、フェミニズム怖い
本の中で、ずばり書かれていた事が完全に的を得ていて、ぐさりときました。
「若い頃、一世代前の女性たちがフェミニズムを大声で唱えるのに反感をもっていた。
仲間内で妥協も結束もできなくて自滅する、よくある社会運動のひとつと完全に軽蔑していた。
もう完全に平等に扱われるようになっているのに、何をヒステリックに騒いでいるのだと。
でもそれは勘違いであった。
そして、先輩たちが声をあげて頑張ったからこそ当時があったのに、それを当然の様に思っていた傲慢さで、いろいろと台無しにしてしまったのが我々世代。」
意訳するとこういう事でした。
これには、自分が書いた文章かと思うくらいで、ぎょっとしました。さすが同世代。なにからなにまで完全に同じです。
というか、アメリカにしてこうなのか、という驚きがありました。
そして、自分がなぜフェミニストが苦手だったのか、思い出してしまいました。興奮してこの本読んでる我が母よ、あなたの事だよ~笑。
私の母は、当時としては先進的な職業婦人というやつでして、私を里子に出してまで働き続けた人でした。そう、バリバリのフェミニスト。
尊敬できる事もたくさんありますし、母の収入のおかげで田舎町から東京へ仕送りもらって進学も留学もさせてもらいましたから、感謝しています。
しかし、それはそれは要求の高い母親でした。
母は、周囲から、「まっとうな母親」でないと見なされる事に深く傷ついており、自分が立派な母親である事を世間に証明する手段として、私に完璧な優等生であることを求めていました。
子供でも、そういう事は分かっちゃうんです。
よくある母娘の問題だと言われればその通りなんでしょう。でもねー、娘にしてみたら、結構たまんないっすよー。
このことを理由にする私は、ただの言い訳がましい卑怯者かもしれません。
でも私は、自分が職場で理不尽な苦労を味わったにも関わらず、どうしてもフェミニスト的な「だから女たちよ立ち上がれ、声をあげよ」という呼びかけだけには、同調できないのです。
自分が頑張った分だけ、自分と家族が幸せになればそれでいい。人からどう思われるかなんて事を気にしすぎたらダメだっていつも思ってる。理想社会の実現のために働いてるんじゃないやーい。
結局のところ、こういう志の違いが、職業人生のゴールにも影響してくるのでしょう。
救いは、それが個人としての幸福とは必ずしも関係してない、というところですかね…。
ああ、こんな立派な人の立派な本を読みながら、なんて自分勝手で志の低い感想しか持てないんだ。我ながら情けないぜ。
さてと。こんな雑文ながら、これが本年最後の更新になると思います。
皆様、よい年をお迎えください。
来年も、だらだらとテキトーでマイペースな事やっていきます。よろしく、です。
さてと。こんな雑文ながら、これが本年最後の更新になると思います。
皆様、よい年をお迎えください。
来年も、だらだらとテキトーでマイペースな事やっていきます。よろしく、です。