「・・・なんでこいつがここにいるんだ?」
最高に不機嫌な声で問いただす上司に対して、赤い目をした補佐官は澄まして答える。
「こちら両名とも閣下とお会いするのは初めてだと、そう申しておりますが?」
何をしらじらしい・・・。マスタングはむすっとした顔で将軍としての軍帽を目深に被りなおす。
(確かに、ドクター・マルコーとは取り引きをし、名を変えてこの地へ移り住むことを認めた。だが、よりによってこいつは・・・)
傷の男。かつて自分の命をつけ狙っていた男が、あの約束の日を生き延びて、ここイシュヴァールの地にいようとは。
「このドクターはキャンプで暮らすイシュヴァール人たちに大層人望厚く、この後の政策にも協力を申し出てくれています。また、こちらの人物は・・・」
マイルズは、形だけは紹介するような素振りで手を男の方に向ける。
「イシュヴァール人たちが宗教的指導者と認めている者ですので、閣下のお役に立てればと、お連れしました。」
額に大きく傷跡を残す男は、ドクターに続いて入室してきてから後ずっと無言であったのだが、ようやく口を開いた。
「・・・俺は宗教的指導者などではない。」
「ほう。では聞くが、貴様は一体何者で、何をするためにこの地にいるのだ?」
東方司令部長官と呼ばれる男が、威厳をもって問いかけた。
「この地に再びイシュヴァールの国が築かれるのを神が赦すかどうかをこの目で見に来た。名など捨てた。故に勝手に”師”などと呼ばれているだけだ。」
ふん・・・。マスタングは表情をやや用心深いものに改めつつ、再び尋ねる。
「貴様の意志など関係ない。師としての立場でこの場に来たからには答えてもらおう。貴様は、我々アメストリス軍から武力をもってイシュヴァール独立を勝ち取ろうと、そう考えているのか?」
激務の中、少数の護衛だけを引き連れて宿命の地を訪れた男の黒い瞳は真剣であった。
マスタングが大総統府へと行った献策がすでに噂として広がってしまい、各地へと散らばっていた流浪の民がぞくぞくとこの地に集結しつつある。
多くは、か弱い老人や女子供も含む一般人で、貧しい身なりをした彼等は生活の疲れが隠せない。
治安視察のために訪れたマスタング一行に、一様に暗い目を向ける彼等の姿に、マスタングはこの先待ち受ける事業が想像以上に困難であると覚悟を新たにせざるを得なかったのだ。
キャンプで寝泊りする人数が急速に膨らめば、イシュヴァール人同士での揉め事も起きるし、そもそも食料や衛生事情などが今の配給体制ではもう支えきれそうもない。
だが、大きな軍の部隊を投入すれば、感情的な対立を煽りかねず、少々頭の痛い事態になっているのである。
今、イシュヴァールの民衆を激発させてはならないのだ。だから、もしこの傷の男が煽動的動きをとる気であれば・・・。
マスタングは、軍人としての不穏にして冷徹な目で対峙する相手を見据えた。
その黒い目を正面から見返して、傷の男は言った。
「言ったはずだ。俺は神が赦すかどうかを見るだけだ、と。俺は、神によってイシュヴァールの民に全てが認められているなどとは考えていない。」
「・・・ほう。だがそれは、正統なイシュヴァラ教の教義とは随分異なるのではないか?」
思わず口を挟んだのは、マイルズであった。彼はイシュヴァラ教徒ではなかったが、イシュヴァールの血を引く祖父から教えを聞いたことがあったのである。
「俺は、神から選ばれ与えてもらっていた民であるという教義には興味もないし、賛成しかねる。それに、煽動の意志もない。」
「・・・そんなんで、本当に宗教的指導者が務まるのか?」
思わず心配になって尋ねてしまったマスタングに対して、傷の男はむっとして短く応じた。
「だから、俺は宗教的指導者なんかじゃないと言っているだろうっ」
「まあ、今日のところは、いい。」
相手の言葉に嘘はないと判断し、マスタングはため息と共に椅子から立ち上がった。
「ご足労をかけたお詫びに、見送りくらいしよう。」
将軍自ら見送るんだぞう、と威厳を示そうとはしてみるものの、本当に少人数の精鋭部隊だけしかいないためいまいち迫力に欠ける。
「・・・こいつは、まだどう出るか分からん。監視を怠るな。」
そう低い声でマイルズに囁く。指示を受けたマイルズは、半ば苦笑と共に了解、と頷き、そっと後ろに控えている部下へと指示を伝えようとした。
その時であった。一行を遠巻きに眺めていただけのキャンプ民の集団から、ひゅっと飛び出してきた影。
その手に何か光るものあり、と認めた軍人たちが咄嗟に引き倒しにかかったが最早遅かった。
マスタングは、自らの腹につきたてられたナイフを見て、呻き声の代わりにただ自嘲の笑みをもらす。
「許さないぞ!僕たちは、絶対にお前たちを許さないぞ!」
まだ12~13才くらいの年端もいかぬ華奢な少年が、数倍の体躯の軍人たちに押さえ込まれながらも、声を張り上げ叫び続けていた。
一部始終を目撃した周囲のイシュヴァールの女子供が一斉に悲鳴をあげる。
それに呼応して軍人たちも緊張し一斉に身構えた。
騒然としかかったそこへ、マスタングの一喝が響き渡った。
「騒ぎ立てるな!かすり傷だ。」
そして、やや青い顔をしながらも歩き始めようとする上官の身体を、マイルズが咄嗟に肩を差し出し支えた。
「・・・だが、そこの少年が行ったことは犯罪だ。保護者と責任者に来てもらうことは止むを得まい。」
声を振り絞ってはいるものの、次第に声に苦しさが滲む。マイルズは、何とか崩れ落ちず立ったままもちこたえているマスタングが、決して軽傷ではないことを見て取って唇をかんだ。
すると、その時。
「その少年は孤児だ。親はいない。ドクターに保護者として引率してもらおう。」
傷の男の声がした。ドクター・マルコーはその台詞にはっとしてすぐに頷く。
まだ混乱し己のしてしまったことに慄いている少年を励ますようにして手をとると、軍人たちから守るように肩を抱いてまず落ち着かせてやる。
そしてそのまま、不安と緊張がはりつめる衆目の中をゆっくりと歩き、軍人たちと共に無事軍用車に乗り込んだのだった。
軍用車の発進音が響くと、見守っていたイシュヴァール民たちが、急に夢から覚めたように声をあげ始めた。
「おい!あのままアメストリス軍の奴らを帰していいのか!」
「そうだそうだ!同朋のあの少年を取り返さないと!」
だが、その燃え上がりかけた民衆の動きを、傷の男の怒声が止めた。
「落ち着け!ここで騒ぎ立てたら、再び悪夢が始まると分からんのか!」
戦士たる男が仁王立ちで放つ覇気は、辺りを十二分に萎縮させはしたものの、火の点いた感情はなかなか収まらない。
「尊師!尊師はそういうが、アメストリス軍は俺たちをこの地から追いやった許せない敵だ。」
「そうだ。この地は神が我らに与え給うた地。我らに再び与えられるのは当然の権利だ。」
傷の男の同朋を見る赤い目が、猛々しいものから静かに澄んだものへとゆっくりと変わった。
その上で、まるで独り言のように呟かれた次の言葉が、イシュヴァール人の心を打った。
「神であれ何であれ、人から選ばれたり、与えられたり。そんなものが我らの誇りに繋がるのか?」
もし本当に神がいるのであれば。傷の男は続けた。
「自ら責を負い汗を流して築いた者にこそ与えられる。これが真の誇りだと俺は思う。」
キャンプで物乞い同然のその日暮らしを続けてきた人々は、ある者はうなだれ、ある者は瞳を燃え上がらせながら、傷の男の言葉を噛み締めたのだった。
*****
「いいですか。抜きますから、ちょっと力を抜いて楽にして。」
救護車の中でマスタングの応急手当を始めたドクター・マルコーは、刺さったままだった小さなナイフをゆっくりと抜いた。
飛び散った鮮血に、少しだけ顔をしかめつつ、呟く。
「まあ、咄嗟に抜かなかったのはさすがというか、正解でしたね。ちょっと輸血が足りなくなるかもしれません。結構な出血だ・・・」
それにしても、と首をふりふりあきれた様にため息をついた。
「マスタングさん、もとからある腹の火傷跡だけでも結構すごいのに、さらにこの傷が重なっちゃあ、さすがに壮絶なことになりそうですね。」
青い顔をしたまま輸血と仮縫合を受けるマスタングは、先ほどまでの威厳を保っていた姿とはうってかわって、さすがにぐったりと参った様子である。
気絶していないだけでも、さすがというべきであったかもしれない。
「・・・傷の男の異名をもらうのは、あいつ一人だけで十分だ。こう見えても私は人気商売だから、大事な顔に傷がつかなかっただけよかったよ・・・」
(・・・この人、相変わらずだ。)
どこまで本気で言っているんだか。どう反応してよいものやら困ったマルコーは、ふいに浮かんだ事を尋ねてみた。
「そういえば、私が預けた賢者の石。あれがあれば役立つんですがね。さすがに、貴方の目の治療に全て使ってしまいましたか?」
ああ、あれか。マスタングはやや苦しげに息を乱しつつ答えた。
「あれは、結局使わなかったんだ。それで何とかなっちゃったから、それで良かったんだろう。あれにはきっと他の何かの役割があると思って大事にとってある。」
その事実を初めて知ったマルコーは、ちょっと驚いた様子だったが、そのまま黙って治療を続けた。
もし使わなくて済んだのであれば、それでもよい。あの石にはその原材料とされた人間たちでなく、それを手に入れようとしてきた者を含む無数の悲しみと苦しみ、そして希望と祈りが込められているのだから・・・。
それが求めてやまなかった大勢の手をすり抜けて、最終的にこの男の手に渡ったということにも、きっと何かの意味があるのだろう。
やがて、応急処置を終えて専用車に戻ったマスタングの傍らに、いつも通りのポジションで乗り込んだマイルズである。
「あの少年はどうした?」
すぐに問うてきた上官に、てきぱきと回答する。
「簡単な職務質問をして調書をとった後、すぐにドクター・マルコーと一緒にキャンプ地に送り届けさせました。未成年だし、法的には問題ないでしょう。現場では、あの傷の男がどうやら事を収めてくれたようですよ。」
そうか・・・。マスタングはようやく安心したかのように頷くと、思い出したかのように急に腹を押さえてうずくまった。
部分麻酔が切れてきたのか、痛さに悶絶している少々情けない上官の横顔を黙ってみつめていただけだった彼が、静かに口を開いた。
「・・・貴方、わざと刺されましたね、閣下?」
「わざと刺されるアホがいるかっ。油断していたんだ、油断!」
大声で怒鳴り返したために、腹に響いたのかまたも悶絶している男の姿に、マイルズはあきらめの様なため息をひとつついただけだった。
「あなたに倒れられちゃ困りますから、しばらく静養できるように手配します。任せておいてください。」
「・・・珍しく優しい事言われると、不気味だ。」
「優しくしてくれるのが美女でなくて、申し訳なかったですがね。」
マイルズは、青い顔してうんうん唸っている男の顔を、いつになく真面目な目で見上げた。
(この男が、そんなに簡単にやられる訳がない)
配属されて早々に目撃した、戦士として強力なオーラを放つ姿が目に焼きついていた。数々の地獄を渡り歩いてきたこの男が、あんな少年の刃になど反撃できぬ訳がないのである。
そう。この男は、あの瞬間、焔を用いなかった。咄嗟の事であったのに、イシュヴァールの少年を火達磨にすることを意志の力で避けたのだ。
「ドクター・マルコーら他の錬金術師と違って、貴方が人柱とやらに選ばれた理由がだんだん分かってきましたよ。ホムンクルス達が必要としていたのは、膨大な人間の魂を術のエネルギーへと変換する機能を備えられる人材だったんでしょう?つまり、その自分自身の魂はもっていかれないまま機能し続けるという条件を満たさなくてはならない。肉体と魂の結びつきが強い人間とは、要するに強靭な精神の持ち主ということなんですね。貴方という男を見ていると、それが良く分かる。・・・あれ?」
マイルズは語りかけていた言葉をふいに噤み、首をかしげた。
「・・・聞いてますか?・・・」
マスタングから何も返答がない。
マイルズは語りかけていた言葉をふいに噤み、首をかしげた。
「・・・聞いてますか?・・・」
マスタングから何も返答がない。
(・・・もう寝てる・・・)
疲れてしまったんだか、気絶してるんだかよく分からないものの、マイルズは苦笑しながら用意してきた毛布を上官にそっとかけてやったのだった。