東部から到着したばかりの伝令官が、早々にグラマン大総統へ報告を始めた時、リザ・ホークアイは丁度ボスが飲み干したコーヒーカップをデスクから下げようとしていた。
「視察中だったロイ・マスタング准将が、イシュヴァール人に刺されました。」
がちゃん、と陶器のぶつかる音が伝令官の第一声を遮る。グラマンと伝令官は、音に吊られるように振り向いて、蒼白の顔色をした女補佐官を見やった。
「・・・し、失礼しました。報告を続けてください。」
ホークアイが慌てて詫びると、伝令官ははっと敬礼をして再び報告を始める。
「重傷ではありませんでしたが、現在は治療のためイーストシティ軍病院に入院しています。犯人は少年でしたが既に釈放。幸い暴動には至らず、事態は収束に向かっております。」
「・・・命に別状は無かったからいいようなものの。」
報告を終えた伝令官を下がらせると、グラマンは深いため息をついた。
「やはり、イシュヴァールは難しい情勢の様じゃな。さて、どうするか・・・。」
腕組みして何事かを考え始めた大総統の傍らで、黙って屹立したままの秘書官あったが、ふいに声をかけられてはっとした。
「さすがの君でも、動揺する事があるんじゃねー。いやいや珍しいところを見せてもらった。」
ふぉっふぉっと声を立てて笑われても、ホークアイは一言も言い訳できない気分であった。本当に、刺された、という言葉が耳に飛び込んできた瞬間、目の前が真っ暗になったかと思ったほどの衝撃だったのだから。
「ホークアイ君、ちょっとこの私の代わりに東部へ行って来てくれたまえよ。」
まるでお使いを頼むみたいに軽い調子で発せられた台詞は、だがすぐに少々不穏な響きへと変わる。
「無論、重要な仕事じゃよ。いきなり将官級を送り込むわけにはいかん。後任人事やら派閥やらで話が大きくなりすぎるからの。じゃが、実際問題として、奴の提起したイシュヴァール地区解放の機が熟しているのかどうか、それを誰かが行って見極めねばならん。」
という訳で。グラマンは声をひそめた。
「・・・あくまでも極秘で。頼んだよ。」
ホークアイは、表情をひきしめつつ、はっと敬礼で大総統の命令に応じたのだった。
*****
翌日、東部へと向かう夜行列車の中で、ホークアイはうとうととまどろんでいた。
急遽決まった東部行きであったために、引継ぎやら準備やらに追われほとんど睡眠をとれなかったのだ。無論、大事な愛犬を今は尉官に出世しているフュリーへと預けることも忘れない。
幾度か短い夢を見た。その中には、確かに懐かしい男の黒い瞳が出てきたようにも思うが、その記憶はまるで掴もうとするとすぐに消えてしまう幻のようにはかなく頼りなく、ひとたび夢から覚めてしまえば、ほとんど何も思い出せない。
東部の駅で、東方司令部の担当者と落ち合い、そこからさらにイシュヴァール行きの列車へと乗り換える予定だった。
順調にいけば、明日の午後にはイシュヴァールの地が踏めているはずである。
(いったい何年ぶりかしら・・・)
全ては、あの乾いた赤い大地から始まったのではなかったか。軍にとびこんで早々に味わった生涯忘れ得えぬほどの地獄。そしてあの人との再会・・・。
「仕事が終わったら、イーストシティにも寄らなくては、ね。」
独り言のようにぽつりと呟く。そう、イシュヴァール視察を終えた後、入院したという東方司令部長官のお見舞いに訪れる事くらいは許されるだろう。
一応は大総統の代理の名目で視察に来ているわけなので・・・。
かすかな心のざわめきを押さえつつ、一体何に対して説明しているのか自分でも定かではないままに、何となく心で言い訳してみたりする。
やがて、朝焼けに空が赤く染まる頃、列車はイーストシティの駅へと到着した。
ほとんど利用客がいなかったらしく、降り立ったホームに人影はまばらである。
よいしょ、と大きな手荷物を掴み上げ、ぐるりと辺りを見渡す。
すると、長いホームの先に幾人かの軍服らしきシルエットが見えた。先方はまだこちらに気づいていない様子である。
迎えの担当者に違いない。ホークアイは、ひやりとした朝の空気で目を覚ますかのように、男たちに向かってゆっくりと歩き始めた。
カツン、カツンと最初はゆっくりとしたリズムで鳴っていたホークアイのブーツは、だがしかし、途中から次第に速度を増し始めた。
最初、あ、と気づいた瞬間に胸がどきりと鳴った。やがて、その姿が近づくにつれ、どんどんと胸の鼓動は高まり、気づけばホークアイは途中から夢中で駆け出してしまっていた。
朝日を背に受けていた男たちが、ようやく気づき揃ってこちらを振り向く。ホークアイの視線の中で、懐かしい黒髪の男がびっくりした様な顔をして振り向いたと思ったら、白い歯を見せて笑い、大きく腕を広げた。
そして、まるで小さな子供みたいに無心となった女が、男の腕の中に飛び込んだ。
「あいててて・・・。ホークアイ大尉、まだちょっと腹が痛いんだ・・・。」
夢中で背中に回した両腕もそのままに、ホークアイはただ男の胸に埋めたままの顔を上げられない。情けない自分の半べそ顔なんて絶対に見られたくなかった。
困った様に笑うマスタングは、ただ優しく金髪を繰り返し撫でてやる事しかできない。
気づけば、同行していたマイルズと傷の男の二人が、揃ってあさっての方向を見やり咳払いなんかしていた。武士の情けの見ないふりというやつに違いなかった。
「入院したと伺いましたが、大丈夫なんですか?」
乗り換えた列車個室の中で、ホークアイが心配そうに尋ねる。
「公式にはまだ入院中だよ。だから、今日のこれは、厳密には非番扱いだ。」
そういっていたずらっぽく笑う男の顔色は思ったより明るく、女はようやくほっとする。
「・・・それにしても、大事に至らず済んだのは本当に良かったですし、お見事でした。」
うん、まあね。マスタングは少しだけ褒められた子供みたいに得意そうな顔をしたが、軽く列車の席の上で伸びをした。
「傷の男がいたのに、驚いただろう?実は、やつに助けてもらったようなもんでね。」
そうして、マスタングは簡単に傷の男の立場と、彼によってまとめられている流民たちの事情を簡潔に説明した。
「・・・という訳だ。大総統からお目付け役として派遣されてきた君に、何も隠し事はできないけれど、あの男とドクター・マルコーの事は私の裁量に任せて欲しいことなんだが、駄目かな?」
ホークアイは、黙って男の説明に耳を傾けていたが、しばらく考えてから言った。
「とにかく今回の私の仕事は、グラマン閣下に代わってイシュヴァールの実態をこの目で見ることですので。」
相変わらず固いね君は、と男は薄く笑う。
「つまり、今の君は”大総統の目”という事か。実に君らしいじゃないか。」
ホークアイもまた、つられた様にくすりと笑みをもらした。
「お褒めに預かり光栄です、マスタング准将閣下。」
昼すぎに着いた列車は、現地の部隊の幾人かによって迎えられたが、ホークアイは現地駐留要員の少なさにまず驚くこととなった。
(・・・なるほど。話に聞いていたよりも、すごい人数に膨らんでいるわ・・・・)
貨物列車が届くたびに、てきぱきと配給部隊が仕分けをし、キャンプ民たちが暮らす仮設の居住区へと運搬していく。
だが、急ごしらえの居住区は既に満杯で、あふれ出た流民たちが配給場所へと群がる有様は、ぎりぎり秩序を保てているのが不思議なほどである。
「・・・また増えたな。」
低い声で呟くマスタングの声に頷きながらも、鋭い観察の目を向けていたマイルズが、質問した。
「あの集団はいったい何だ?」
マイルズの指が示した先には、4~5名の男たちが集団となっており、列に並ぶイシュヴァール人たちに何事か指示を出しているように見えた。
「あれは、自警団だ。急ごしらえだが、我々の中から有志の者が集まって始めることにした試みのひとつだ。」
傷の男のいらえに応じて、マスタングらはよく観察しようと目を凝らした。自警団は屈強な男たちばかりとはいえず、白い髪の老人もいれば、まだ少年といった方がよさそうな年若い者も混ざっていた。
「ただ与えられるのを待つだけでは駄目なんだと、ようやく我々も気づいて動き始めたということだ。」
「・・・そうか。」
マスタングは表情を引き締めなおして頷く。
「上手くいくことを私も望んでいる。軍部としての介入を最小限に止めたいからな。」
「それは、こちらも同じだ。そちらに介入の口実を与えたくない。」
傷の男とマスタングのやりとりに耳を傾けつつ、ホークアイは二人の複雑な立場を理解するしかなかった。
立場が変わっても、この二人は対峙し合う宿命なのかもしれない。
(だけど、なんとなく面白い二人だわ・・・)
そう、かつて復讐者と復讐される者として出会ったこの二人。今は、対立しつつも同時に新しい道を築こうとする同志でもあるのだった。
「今夜は、あそこでお休みになりますか?」
マイルズが、軍用施設の一帯にあごを向けながら確認のために問いかけた。それは、かのイシュヴァール殲滅戦の遺産でもある。
だが、マスタングは軽く首をふって応じた。
「いや。ホークアイ大尉には、ぜひ視察してもらいたい場所がある。悪いが、あの”谷”へ案内してくれ。」
(・・・?・・・)
不思議に思いつつ軍用車で向かった先には、ホークアイが初めて見る光景が待っていた。
「・・・これは・・・遺跡、ですか・・・?」
夕暮れの近づく赤い大地の中に、突如としてぽっかりと現れた暗い裂け目の様な穴。
そこを促されるままにゆっくりと降りていくと、赤い壁に囲まれた自然の回廊がどこまでも連なっていた。
深く潜るほどに地上に開いたわずかな隙間から陽光がゆらめくように降り注ぎ、時として赤い砂がさらさらと舞うように降ってくる。
その荘厳なまでの美しさに思わず息を呑んだ。
「ここは、イシュヴァール人たちの聖地のひとつだ。彼らは”神殿”と呼んでいるが、どうやら自然に作られた場所のようだ。」
マスタングの説明に、案内役を務めていた傷の男が静かに口を開いた。
「我々はここを神が住まう場所として、ずっと長い間アメストリス人たちにも隠していた。」
なるほど。この赤い大地の中に突如として現れた谷は、悠久の時の中で水と砂と風の力で削られ形作られたものに違いなかった。
「だが、本当の神殿は、まだこの先にある。」
傷の男が先導して進む先が、今度は一転して上り坂となる。
野戦地用のリュックを背負ったホークアイは、自らも少々息をきらしつつ、傷の癒えていない男をそっと気遣うが、少しばかり強がっているのか、マスタングは黙ったまま歩調を乱してはいない様子であった。
やがて、ようやく登りきった場所に、突如として現れた石造りの建物。今度こそ、これは遺跡で間違いない。だが、この建物は・・・?
「これは・・・この様式はどこかで見たことがあります・・・」
過酷な自然の条件下で歳月を重ね廃墟と化しているその建物は、アメストリスやその近隣の国はもちろん、イシュヴァール人たちの建築様式のどれとも異なる様であった。
しかも、ところどころにうっすらと残されている文様。それは・・・。
「そうだ、間違いない。これは錬成陣の跡だ。ホークアイ大尉。」
重々しくマスタングは頷いた。