「各地を流浪していたイシュヴァール人によると、これはクセルクセスの遺跡と非常に良く似ているという証言がある。あるいは、もっと古いものかも・・・。」
崩れかけた壁に残された大きな錬成陣の前にたつと、マスタングはそっと一同を手招きした。
「私も、傷の男からこの事を聞いた時、最初は信じなかった。他でもないイシュヴァール人が守ってきた聖地の最奥に錬金術の痕跡が残っているなんて。」
だが、ほら見たまえ大尉。マスタングが指し示した箇所には、間違いなく見覚えのある雌雄同体の竜の絵が描かれていた。
「クセルクセスの遺跡を見たことがある人間がアメストリスには3名いる。ブレダと、マリア・ロスと、そして・・・」
「・・・鋼の錬金術師だな。」
傷の男が低く呟く声に頷いて、マスタングは続ける。
「私は、まずブレダを呼び寄せて、私の仮説を確認させるつもりだ。そして、無論鋼のやつにも来てもらう。何か我々の知りえなかった重要な事実が隠されている気がしてならないんだ。」
ま、今は鋼の錬金術師という銘は廃業してるようだがね、と焔の錬金術師は軽く首をすくめた。
「それにしても不思議ですね。いくら秘密の場所とはいえ、こんなに長い間、この場所を隠し通せて略奪などの被害にも遭わなかったなんて。」
「・・・それには理由がある。」
傷の男はゆっくりと登ってきた道の下方を振り返って指し示した。
「先ほど通ってきた赤い回廊を見ただろう。あそこは、ひとたび雨が降ればどういう事になるか、分かるか?」
はっと気づいてホークアイは口元を押さえる。
(なるほど、あの谷には赤い大地から一斉に水が流れ込むのだわ。だから自然の力であんな風に削り取られて・・・)
やがて、遺跡からしばらく歩いた先の、ほど良く開けた場所にたどり着くと、一同を迎えた者たちの姿があったのにホークアイはまたも驚かされた。
「我らの聖地だ。ここもまた警護の対象と捉えている。」
キャンプ地で見たのと同様に、急ごしらえの様子は隠せてはいなかったが、警護団の面は誇りに輝き、アメストリス軍幹部の訪問に対して、きちんとした挨拶をした。
「マスタング准将閣下、ですな。私はこの団の代表の者です。」
長老と呼んでもいい年齢の男が前に出て挨拶すると、すぐに手招きして一人の少年を呼び寄せた。
その少年の顔を見るなり、マスタングもマイルズも、あ、という顔をしたので、ホークアイはそれが誰であるのかすぐに分かった。
「・・・こいつがやった事を大事にしないでくれて、我々も助かりましたのじゃ。こいつには良く言い聞かせてありますんで、勘弁してやってください。」
少年は、赤い顔をしてもじもじと俯いていたが、マスタングはにやりと笑いかけると言った。
「この私の隙をつくとは、なかなか大したものだ。今夜は君に守ってもらうことになりそうだが、よろしく頼む。」
そう言って手を差し出す。少年は、どぎまぎした様子で長老の顔を振り返るが、長老が黙って頷くのに励まされて、おずおずと手を伸ばしマスタングと握手を交わした。
すっかり夜が更けていたが、一同はおのおのの小さなテントを張る作業にとりかかった。
無論、女であっても軍人たるホークアイもまた自分の寝床は自分で用意するのである。
(・・・星が、近いわ。)
ホークアイは酷く長く感じた一日を夜空を眺めつつ振り返り、一同に軽く挨拶を済ませると、ようやく身体を横たえたのだった。
思いがけず深く眠ったものの、いくつか恐ろしい夢を見た気もする。都市とは異なる、ここイシュヴァール独特の空気と風の音が蘇らせた思い出が見せた夢に違いなかった。
「・・・大尉。ホークアイ大尉。」
低く自分を呼ぶ声に、急激に意識が覚醒する。ホークアイはむくりと身を起こすと、まだ暗い中じっと目と耳をこらす。
「起きているか?君に見せたいものがある。」
テントの向こうから呼びかけられた声は、まぎれもなくマスタングのものであった。その事を確認すると、ホークアイは静かに自分のテントから抜け出て小さな声で挨拶をした。
「おはようございます、マスタング准将。随分お早いですね?」
マスタングは、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、口元に指を当て、静かに、と身振りで伝えた後ついてくるように手招きした。
ホークアイは首をかしげながらも素直に後をついて歩き出す。
まだ日の出の時間の前のため、辺りは薄暗い。だが、真夜中とは異なる証拠に、遠い空の色が薄く色づき始めていた。
しばらく歩くと、ごつごつとした岩場に出た。ところどころに生える木の根や草葉に助けられつつ、黙々とよじ登る。
やがて登り切ったところで、急に視界が開けた。
薄闇の中でもはっきりと分かる。目の前には巨大な渓谷のシルエットが連なり、深い深い谷の水が流れ行く先に広大な大地が広がっている様が。
そう、二人は今、巨大な渓谷の頂上に立っているのだった。
マスタングに導かれるままに、大きな平らな石の上に並んで座る。石がひやりと冷たい。
「君と、ここの夜明けを見たかった。」
まるで世界に二人しか存在しないかのような大自然の静寂の中、マスタングの低く囁く声だけが聞こえる。
すると、あたかもその声に応えたかのように、遠い地平線が急速に赤らみ始めた。日の出が始まるのだ。
最初は、ほんの一筋の朱赤の光線が差しただけなのに、それだけで、一斉に世界が色づく。
光が少し増すごとに、雄大な渓谷の風景は紫から次第にうすい桃色へと移ろい、この世のものとも思えぬ幻想的な大パノラマを見せてくれる。
堆積した地層をむき出しにした谷の文様が美しく、それが形作られた悠久の時へと思いを馳せずにはいられない。
一言も声を発せぬまま、感動的な眺めに夢中の女の横顔を満足そうに眺めた後、マスタングはごく自然に隣の女の肩に手を回した。
ホークアイは、最初はぴくり、と緊張したものの、抵抗するでもなくそのまま抱かれる。
「・・・君に会えて、少し元気が出たよ。」
マスタングの優しい声に、素直に頷きつつ、ホークアイもまた呟く。
「・・・私も、です。」
二人はそっと見つめあった。マスタングが嬉しそうに目を細める。
「思った通りだ。良く似合っている。」
リザは、思わず耳元のピアスに手をやった。離れていた間、ずっと肌身離さず身につけていた赤い石。
そして、マスタングの求めに応じてホークアイが静かに目を瞑ると、そっと唇が重ねられた。
「会いたかった?」
きゅっと抱きしめてくる男の温もりが泣きたいほど懐かしくて嬉しい。問いかけに、ただ無言のまま首を幾度も縦にふって男の背に回した両腕に力をこめる。YES。YES。
「私だってずっと我慢してたさ。だから、少しくらいのご褒美はいいだろう?」
そう言って交わされた次の接吻は深く激しく、ホークアイは思わず呻き声をあげそうになった。
しかも、である。そのままあろうことか男は女の軍服をたくしあげ始めたではないか。
「ちょっ。マ、マスタングさん。こんなところで何をっ。」
さすがに驚いたリザが抗議の声をあげるが、男は澄ました顔のまま悪戯な手の動きをやめようとしない。
「言っただろう?ご褒美が欲しいって。」
例によって、妙に手馴れた男は、重装備だった女を自分の望み通りの姿に器用に剥いてしまい、岩場の隣にある木のそばへと誘う。
「でも・・・。誰かに見られたら・・・。あっ、ほらっ。ほらあ。」
木の陰からこちらを覗いているびっくりした様なつぶらな瞳と目があってしまった。
余りの恥ずかしさにリザが哀願するような声をあげるが、男はいたって大真面目に応えた。
「鹿に見られたからって何だ。ちっとも恥ずかしくなんてないし、むしろ見せ付けてやろう。」
そして、木に寄りかかるような姿勢を女にとらせた後、最後の許しを請うために耳元で囁いた。
「君と繋がりたい。今ここで。」
蕩けそうなその声に、女は黙って目をつむり、猛る男を迎え入れるしかなかった。この男らしくもない性急さからリザは男の餓えを感じとり、自分自身もまたずっと同じ思いを押し殺してきたことを改めて痛感せざるを得なかったのだ。
やがて始まった律動に、小船のように荒々しく揺り動かされ、女は状況を忘れてつい昂ぶる。
ここが神聖な場所であること。任務の途中であること。そんな後ろめたさや恥じらいを感じていたはずなのに、いつの間にか浅ましいまでに男の動きに応えてしまっている自分がいた。
(許してください。)
リザは何に赦しを請うているのか自分でも分からぬままに、荒い息を吐く男の黒髪を夢中でかき抱いた。
(私はもう、この人と離れて生きることはできません。)
リザの中でずっと押し込められていた何かがはじけた。決壊したそれは溢れ出して押し寄せて。やがて、高く鳴いた鷹の声が辺りに響いた。
「・・・もう、強引なのにも程があります・・・」
ぐったりと男に身体を預けた姿勢のままで、女がうらめしそうに声を発した。
高く響いた声に驚いたのか、草むらの向こうで見守っていた鹿はどこかへ去ってしまった様子である。
男はやや息を乱しつつ応えた。
「好きな女と1年以上も会えなかったんだ。会えば、こうなるのは自然だろうっ。」
そして、満足の接吻を互いに贈りあうと、二人は乱れきってしまった服装を互いに咳払いしながらようやく正した。
「見たまえ、あれがイシュヴァール閉鎖区だよ。」
大渓谷を形作る河の流れ行く先に、周囲の赤い大地とはやや異なる色合いの人里の跡が見える。遠目にもそれは無残な焼き跡と廃墟と化していることが明らかであった。
だが、広い。この大地はなんて広いんだろう。
「事態の難しさに絶望的な気分になることもしばしばだけれど。でも、こうして広い世界を眺めれば、胸に希望が湧いてくる。この世界には、大勢の人間を包み込んでくれる大地の、神の恩寵があるに違いないってね。」
「・・・ええ。分かります。」
ホークアイは男の言葉に静かに頷き、遠くを眺める黒い瞳を、誇らしげにそっと見上げたのだった。
*****
「おい、遅かったじゃないか。心配したぞ。」
見回り番から戻ったばかりの少年に声をかけたイシュヴァールの男たちは、少年の奇妙な様子に首をかしげた。
「お前、妙に顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」
「い、いえ。大丈夫。何でもありません。」
少年の落ち着きのない様を見て、兄貴分の男がからかい声をあげた。
「ははーん。さては、こいつ、見回り先で鹿の交尾でも見ちまったんじゃねえの。季節だし。」
すると、ますます真っ赤になった少年の顔色を見て、図星と見た男たちは声をたてて笑った。
「さすが、ガキは純情だねーっ」
「ああ、俺もお前みたいな純粋な頃に戻りたいよ。」
男たちの大きな手に小突かれながら、少年は照れたように笑いつつ、言った。
「・・・でも、とても綺麗だったんです。まるで夢のように・・・」
うん、ここの鹿って大きくて立派だもんな。からかうのに飽きた男たちは、その少年の台詞に余り本気で相手をせず、忙しく自分たちの持ち場仕事に戻ろうとしていた。
一人残された少年は、ぼんやりと先ほど見た光景を胸に思い描いた。
黒い髪の男に抱かれた女の白い肌。朝日に輝く金の髪が谷の風に揺れていた。
(一瞬、本当に、神様のお使いかと思ったんです・・・)
朝焼けに染まる空に負けぬほど赤い顔した少年は、そっと目を瞑ったのだった。